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「1軍に残れるかビクビクしていた」石井丈裕 黄金時代の西武入団から後に打ち上がる”大きな花火”の前夜まで

2年目、小山正明コーチから教わったパームで投球に幅が広がる

2年目の90年シーズン、この後の活躍に向けた転機が訪れる。この年から2年間投手コーチを務めた小山正明から1つの球種を教わった。それが石井の投球を支える武器になっていく。

「小山さんがコーチで来てくれた時に、パームボールを教えていただきました。アマチュアの時はカーブを投げていたのですが、プロに行って腕の振りが緩むということで、思いっきり腕振って投げていたらそのうちに投げられなくなってしまったんです。

スライダーが少し球が速くて(ストレートと)スピード差がなかったので緩急がつけられなかったんです。それで、パームボールを教わって緩急ができてから結果が伴ってきました」

その言葉通り先発ローテーションに定着し、7月までに6勝を挙げる活躍で初のオールスターにも選出された。後半は少し失速したものの、シーズンでは8勝と前年から2倍の勝ち星を記録し、2年ぶりの優勝に貢献した。

しかし、巨人との日本シリーズではチームが4連勝し、投手の登板人数が少なかったこともあり、自身が投げる機会はなかった。

翌91年シーズンは、故障がありながらも7勝をマーク。チームは再びリーグを連覇し、広島との日本シリーズを戦った。ここでようやく石井は日本シリーズ初登板となった。第6戦では郭泰源の後を受けてマウンドに上がり、4回を無失点と好投。シリーズ初勝利を挙げた。

入団から3年、さらに実力を磨いていき常勝軍団の中でも生き残ってきた。ただ、プロでやっていける自信がついていったかを訊くと即座に否定した。

「92年まではそんなこと考えられなかった。毎年開幕1軍に残るか残らないか、ビクビクしながらやっていましたから。右ピッチャーはライバルでしたし馴れ合うことなんてなかったです。

今のGM(渡辺久信)は別格でしたが、GM以外の右ピッチャーとは食事に行くなんてこともないほど緊張感持ってやっていましたよ」

新たな武器を備え、日本シリーズの舞台でも勝利を挙げた。そして、翌92年に本人が例えた”大きな花火”が打ち上がる。

つづく

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