「ファンと選手双方にメリットがある」元西武・高木大成が提案した ”ホームを3塁側に”〜著書出版記念特別インタビュー第3回〜
かつて西武ライオンズで「レオのプリンス」と呼ばれ、主力打者として優勝にも貢献した高木大成氏。(※「高」はハシゴ高)
05年に引退後の現在は、同球団の社員としてライオンズを支えている。21年4月にその半生を綴った著書「プロ野球チームの社員(ワニブックス刊)」を出版した。
今回、これを記念したロングインタビューを全6回に分けてお送りする。32歳の”オールドルーキー”。ついに球団の社員としてのキャリアが始まった。
第2回:自身が振り返る引退の決断と球団の社員への転身編はこちら
(取材協力 / 写真提供:株式会社西武ライオンズ、文:白石怜平 ※以降敬称略)
手探りの中から始まった”第二の人生”
「チームが強いのになぜ、観客が入らないのか」そんな疑問もあり、05年から球団の社員としてのキャリアをスタートさせた。
高木が最初に配属されたのは営業部に立ち上げられた「ファンサービスチーム」。
当時は球団もファンサービスを拡大し始めた時期ということもあり、誰もが手探りだったという。まずは自身の知名度を活かし、球場に来たファンにサインをしながら交流していた。
それに加え、サラリーマンとしては”新入社員”。1年目にはこんな苦労があった。
「名刺の渡し方やビジネスマンとしての電話の取り方。それまで自分の携帯しかとったことなかったですから。パソコンは大学時代に使ったことはありますが、では会議資料を作るとなっても作れないですし、それにビジネスメール。
これら全てが初めてだったので。あとはファンサービスでやりたい案を出して社内でどう通せばいいのか。そう言ったところから始まりましたね」
ゼロからのスタートとなった高木は、上司らの仕事を見てかつ自身でもこなしながら1つ1つ体で覚えていった。
選手・ファン両方にメリットのある「ホームは3塁側に」
高木が持っている他の社員にはない強みは”選手としての立場”を誰よりも理解していることだ。ファンサービスチーム所属していた2年間(〜07年)で、自身の提案で通った施策の中から主な2つについて紹介してくれた。
「07年にお子さま向けに夏休みの自由研究になり得るイベントをやりました。まずは球場内の部屋でプロ野球に関する知識を伝えたり、ボールを輪切りにして中身を見せて、頭で覚えてもらう。
そのあと飲食やグッズの売店といった球場内の施設を回り、販売員と一緒にお客さまにお声がけするなどの職場体験を行い、シートノックが終わる頃にグラウンドへ入り、グラウンドキーパーと一緒に試合開始直前のグラウンド整備をします。
観客席にお客さまが座っているなかでのグラウンド整備は、とても緊張したと思います。最後にレオとライナと写真を撮って修了証を渡してあげることをやっていました。
写真を撮りながら修了証とか渡してあげると(自由研究の)証拠になるじゃないですか。自分が野球の練習ばっかりやっていて、自由研究に悩んでいた子どもだったので(笑)」
また、07年と08年の両シーズンオフに行われた球場の大規模改修、高木もこのプロジェクトに参加した。
08年オフに、内野席付近のトイレ設置や飲食売店の増設などを実施。加えて改修の大きなトピックとして、従来は1塁側だったライオンズのベンチ・応援席が3塁側へ移った。これは自らの提案も影響していた。
「基本的には、打球は一塁側の上のカメラで追いかけます。内野ゴロから一塁へ送球されるケースなどがそうですよね。対角線で見られる三塁側からレフト側にかけて空席が目立っていたので、そこをお客さまがたくさん入ることで球場の雰囲気がより伝わると思い提案しました」
球場のことは、内も外も熟知している。選手・ファンサービス両方の観点を持つ自身の知見が他にも大きく活きた提案があった。
「メットライフドーム特有ではあるのですが、当時あった中華料理屋さんやグッズ売店がレフト側に並んでいたんですよ。普通ならばホーム側にあるじゃないですか。逆に1塁側は奥側にチケット売り場がある以外何もなかったんです。そういった点も改善するために提案しました。
後は選手周りもです。この球場は元々ライオンズが戦うためだけに造られた球場のため、ライオンズの選手ロッカーはネット裏上段にあるんです。勝利するとビクトリーロードを上がっていくあの上に実はあるんですよ。
なので1塁側に専用のロッカーがなくて、ホームで試合をしているけども上まで行かないといけないですし何より窮屈でした。この機会にということで元々ある3塁側のロッカールームをライオンズが使用し、ビジターになる1塁側へ新たにロッカールームを整備しました」
選手もファン、そしてチームにとってもメリットがある。この提案によりステークホルダーの満足度向上を両立させた。これはどちらも知る高木がいたからこそ実現できたものだった。
ここからさらに試行錯誤を重ね、着々と経験を積んでいく。08年からはまた新たな部署で挑戦が始まった。
PR部では「とにかく自分で数多く」
ファンサービス部に2年在籍したのち、08年からはPRを担当する部署へ異動。高木が担当したのは、選手の談話取得や各メディアのライオンズ担当向けに対応するチーム付広報ではなく、「球場にいかに来ていただけるか」を目線に置いた”ライト層”に向けた事業広報であった。
代表的な業務はプレスリリースの作成。テレビや新聞だけでなく、雑誌など多種多様なメディアに向けてチームの話題を提供するための情報を作成する役割である。
ファンサービス部は、06年に着任した当時は新規の部署であったことから、全員が手探りで試行錯誤しながら創り上げていった。
一方PR担当では、長年積み重ねて確立されたやり方が世の中に存在する。まずはそれを習得するところから始まった。当初はA4の紙1枚を埋めることに苦労した。添削を受けると真っ赤になって返ってくる。
それでも、「とにかく自分でやって、数多く続けるように」という上司からの”千本ノック”にひたすら喰らいついていった。
「これまで文章をまともに書いたことがなかったので、最初は紙中真っ赤になって返ってきたのですが、それがすごくためになりました。ここでも良い上司に恵まれました。自らお手本を見せてくれる方だったんですよ。
『いかに記事にしてもらえるように書くか。伝えたいことを書けばいいっていうもんじゃないんだよ』とよく言われました。例えば新聞と雑誌ではターゲットが違いますよね。各媒体に合わせて書かないと掲載していただけないですから」
掲載希望のメディアをそれぞれ熟読し、研究することも怠らなかった。上司のアドバイスを吸収しながらアウトプットを継続した結果、「自信を持って仕事ができるようになりました」と語れるほどまでにマスターすることができたのだった。
PR担当を3年務めた次は、「一番きつかったです」と後に語る仕事が待っていた。
(第4回へつづく)
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