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釜石シーウェイブス 佐伯悠 運命に導かれた”ラグビーの街”釜石への縁「シーウェイブスに憧れ、釜石で人を育てるサイクルに」

2011年に起きた東日本大震災。被災した岩手県釜石市に本拠地を置く「釜石シーウェイブス」で当時主将を務めていた佐伯悠氏。

前編では、震災当日や2011年シーズンを振り返るとともにシーウェイブスでプレーする意義について語っていただいた。

本編では、佐伯氏が釜石でプレーすることになったルーツから、釜石市のラグビー人財育成専門員就任に至るまでのラグビー人生について伺った。

(取材 / 文:白石怜平 ※以降、敬称略)

池村HCの熱意が佐伯を釜石へ導く

神奈川出身の佐伯にとって釜石シーウェイブスとの縁は関東学院大学時代に遡る。かねてから同校と交流があり、毎年練習試合を行っていた。

遠征にも応援へ駆けつけたサポーターの大漁旗に圧倒され、「あの時は嫌でしたよ(笑)」と振り返るほど印象は残っていたという。

2度の大学選手権制覇に貢献した佐伯は、選手兼コーチとして在籍していた大学5年目に7人制の大会で釜石を訪れた。その際、チームから「釜石に来ないか」と当時の池村章宏 選手兼ヘッドコーチなどから誘いを受けた。

その時は「釜石には縁もゆかりもないし…」と決められずに釜石を後にした。

しかしその2日後、池村が釜石から大学まで直接足を運び佐伯の元を訪れた。そこで池村の熱意に心が一気に動いていった。

「熱の塊のような方で、熱心に『ウチに入らないか』と言っていただいたのが初めての経験だったんです。それにクラブチームである釜石シーウェイブスがトップリーグに上がることによって日本のラグビーが変わるぞと。一緒にラグビー変えようと語ってくれました」

その言葉を受けた佐伯は期待と希望を胸に抱き、挑戦の場を釜石へと移したのだった。

転機となった2年目の挫折

社会人として、仕事をしながらラグビーと両立しながら過ごしていた1年目。職場の方達の熱心な応援を肌で感じながら練習に励んでいた。

上述の実績から大きな期待を背負っての入団だったが、謙虚な気持ちをずっと持ってラグビーと向き合ってきた。当時からのスタンスをこう語る。

「僕は誰かを蹴落としやろうなどどは考えていないです。モットーは『世の中で一番自分が下手』。そう考えていれば、いついかなるを練習やっても上達しかないです。相手を抜こうとか比べようではなく、自分が一生懸命頑張れば結果は出るし、必ず誰かが見てくれていると信じています」

長時間のインタビューにも快く応じていただいた

1年目から試合に出場し、順調なスタートを切った。しかし、2年目には以降の選手生活を左右する大きな壁にぶち当たる。開幕して間もないリコーブラックラムズ(現:リコーブラックラムズ東京)との第2節、スタメンはおろかリザーブからも外れてしまった。

当時のことを鮮明に語る。

「自分は大学チャンピオンで来ているので1年目は勢いで出させてもらった。でも実はタックルが苦手だったんです。試合の週頭に池村HCから『今週はお前を使わない。リザーブにも入れない。理由はお前はタックルができないから』と」

佐伯にとっても大きな衝撃だったという。こう続けた。

「それまでは『ボールを持ったら絶対何かやりますよ』と、苦手なタックルを補ってあまりあるプレーをしていたのすが、ラグビーはタックルができないといけない。特に社会人になってくるとタックルが重要で、できて当たり前。なので以降の2年間は死に物狂いでタックル練習をして、同期も付き合ってくれました」

その甲斐もあり4年目の2010−2011シーズンにはレギュラーの座を奪還した。

「もし、そのまま使い続けられてたらすぐに挫折していたかもしれないです。(2年目の)2008−2009シーズンは大きな成長でした」

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