千葉ドリームスター 山岸英樹 エースが描く不屈のストーリー「障がいがあっても健常者に負けない動きを見せたい」
負けられない試合の先発マウンドには必ずこの男が立っている。
山岸英樹(所属:EY Japan)。石川県出身の33歳は身体障がい者野球チーム「千葉ドリームスター」のエースである。
野球に加え、パラローイング(ボート)の日本代表候補を経て陸上(走幅跳・やり投)への転向を目指し競技の”二刀流”としてトレーニングに励んでいる。
今回は山岸の二刀流の挑戦を2回に分けてお送りする。本編では障がいを負い断念した野球との再会、障がい者野球での挑戦を追う。(※全文敬称略)
「人生が終わった」どん底からのリハビリ
小学校卒業を間近に控えた2001年2月、突然意識を失う発作を繰り返す病気「てんかん」の手術を受けた。異変が起きたと感じたのは手術から目が覚めた時だった。
左半身の感覚が全くない状態になり、どこにも意識が置けなくなった。のちに判明したことであるが、手術の際に脳梗塞を発症し、それが左半身まひ(当時:全廃状態)の原因だった。
「小学生なりに『人生が終わった』って思いました」
精神的にどん底の状態からリハビリが始まった。リハビリ以外でも自分で体を動かすなど工夫を重ね、1週間で何とか杖をついて歩けるようになった。その甲斐もあり回復傾向が早く、周囲を驚かせる程だった。しかし、本人の感覚は周囲の喜びとは全く異なっていた。
「あの時はこんなに動いていたのに」
元々身体能力には自信を持っていた。回復が早いといってもまだ走ることさえもできない。現状とのギャップに苦しめられる日々が続いた。
そんな絶望的な状況から立ち直れたきっかけがある。それは1枚の色紙だった。
所属していた少年野球チームでは、卒業旅行で福岡に行った。そこで当時の福岡ダイエー(現:ソフトバンク)ホークス対オリックス・ブルーウェーブ(現:バファローズ)の開幕戦を観戦した。
山岸は退院直後だったため断念したが、チームメートの親御さんが球団を通じ、当時の王貞治監督(現:ソフトバンク球団会長)のサインをもらい、山岸の元に届いた。
そこに記された座右の銘でもある「氣力」。王監督から贈られたこの2文字が山岸にパワーを与えてくれた。
中学入学後も約1カ月間はリハビリに専念。術後から3カ月ほど経った5月ごろにキャッチボールやランニングから再開した。徐々にできることを増やしていき、3年生まで完走することができた。
しかし、入学した高校の野球部は県内屈指のチームで、練習量が多いことで有名だった。当時の身体では限界を感じ、野球を続けることを断念した。