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元西武・高木大成 野球界から離れホテルマンへ「素直に部下へ聞きながらこなす」奮闘の日々〜著書出版記念特別インタビュー第4回〜

かつて西武ライオンズで「レオのプリンス」と呼ばれ、主力打者として優勝にも貢献した高木大成氏。(※「高」はハシゴ高)

05年に引退後、現在に至るまで同球団の社員としてライオンズを支えている。21年4月にその半生を綴った著書「プロ野球チームの社員(ワニブックス刊)」を出版した。

今回、これを記念したロングインタビューを全6回に分けてお送りする。第4回は最もきつかった経験という法人営業、そして野球から離れホテルマンとして汗を流した当時を振り返る。

第3回:「ファンと選手双方にメリットがある」提案した ”ホームを3塁側に”はこちら

(取材協力 / 写真提供:株式会社西武ライオンズ、文:白石怜平 ※以降敬称略)

各球団が単体で収益化できるよう構造改革へ

PR担当を08年4月〜11年2月まで約3年務め、11年からは法人営業を担当した。

球団の大きな収入源の1つには、年間指定席の企業向け販売や球場の看板やフェンスへ掲出する広告がある。ここでは、広告として出資する企業を獲得することが高木のミッションとなった。

これまでライオンズでは、年間指定席の販売は西武グループ内の別企業に委託しており、さらに前に遡ると球場内の広告は外野中央のスコアボード周辺のみに掲出されてる程度でフェンスは”まっさら”であった。

時代は移り変わり、主にパ・リーグを中心に各球団は経営改革に着手していた。

かつてプロ野球の球団は、所有する親会社の「広告」として位置付けられており、球団の赤字を親会社が補填することで成り立っているチームが多かった。

その後、04年の大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブ(現オリックス・バファローズ)の合併から端を発した球界再編をきっかけに、各球団は単体で利益を出すことを目標に方針を転換。これまでの約15年、それぞれのチームが企業努力を重ねてきた。

「一番きつかったです」と今でも語る法人営業時代

当時はライオンズも構造改革を進めている真っ只中。委託していた年間指定席の販売を球団自身で行うよう見直し、かつ収益のチャンスを逃さぬためフェンスや看板の広告を積極的に導入していった。高木はその一翼を担うことになったのだ。

しかし、球団が独自で営業活動を行うのはほぼ初めて。現在は大企業から地元の自営業向けまで豊富なラインナップがあるが、当時は大企業に向けたもののみだった。

訪問リストもないため、通勤時に電車内外で目についた企業や使用した家電のメーカーなど手当たり次第に電話をかけた。

「ゼロからのスタートだったので、片っ端から電話営業をしていました。でも『プロ野球の球団?何?』という感じですよ。大企業になると代表番号だけで担当者につないでいただけないこともありましたし…」

現在は”スポンサーアクティベーション”という概念ができ、スポンサーがその権利を活用して企業がマーケティングを行うという動きが活発に行われている。しかし、当時の球場広告においては、具体的なリターンは『企業のロゴを出すことで宣伝効果がある』という時代だった。

「テレビCMはすごくお金はかかりますけれども、しっかり刺さるしリターンも見えてくる。でも、プロ野球に広告を出すというのは一番贅沢なことだと思うんですよ。今でこそ、コーポレートセールスとして出稿主にメリットを創ろうということで満足度も上がり看板も増えてましたけれども、僕らの時は『このスペースいくらです、お願いします』という感じでしたから」

それぞれの業務を振り返る(筆者撮影)

広い視点が新規獲得を生み出す

毎日電話をしては断られるを繰り返し苦戦を強いられる中、あることが思い浮かんだ。

「球場に来られるお客さまは、広く考えるとエンターテインメントが好き。これまでは”プロ野球が好きな人たち”と狭く見過ぎていたんです。エンタメという捉え方をして、セールスをしたら結果が出始めました」

こうして最初に獲得した新規の企業は映画配給会社だった。当時公開日が近かった映画を、球場に来られたお客さまに向けて宣伝するプランだった。

西武線沿線にある映画館などを巻き込み、1試合分を使った大々的なプロモーションになった。

ただ、新規で1件獲得するまでは精神的に追い詰められる日々だったという。当時のエピソードを笑いながら振り返った。

「もう本当に辛かったんですよ。周りの営業マンが契約を獲ってきて営業部長に褒められてるわけですよ。でも私は営業先がないからデスクにいてそれを見ているんです。外に出ようにも出るところもないですから。

それに電話もデスクでやりづらいんですよ。だから球場の外周に行ったりして電話してましたね(笑)営業マンの方って本当に尊敬します」

「今までの仕事で1番苦しかった仕事は営業ですか?」と問うと「間違いないです」と即答したことからもその大変さが滲んでいた。

念願の新規契約を獲得し達成感を味わったのも束の間。この年の冬、新たなフィールドが高木を呼んだ。

”ライオンズ一筋”からホテル業界へ

11年の12月、グループ企業のプリンスホテルへ異動となった。ただ、これは高木にとっては”復帰”となる。

実は高木の正式な所属先はプリンスホテルであり、球団へは出向という形で勤務していた。そのため、所属先に戻ったのだ。

プリンスホテルでの役割はホテルの”マネージャー”。トップの総支配人、副支配人の配下にいるマネージャーのうちの一人という重要な役職になった。

そうは言えども、これまで選手・球団の社員と”ライオンズ一筋”の道を歩んできた。形は変われど野球に携わってきただけに、ここで野球から完全に離れてホテルマンになることは想像だにしなかった。

また当時、プリンスホテルは厳しい経営環境に置かれていた。04年に西武鉄道が上場廃止となってからグループ全体が再編をしている最中で、施設の売却や閉鎖・人員の削減などを行っていた。

ホテルマンでは”プレーイングマネージャー”として奮闘した

さらに時期は東日本大震災からまだ9ヶ月、世の中は自粛ムードが続き、パーティーや宿泊の需要も回復には至っていない状況でのアサインだった。

高木もマネージャーという肩書きながら、実際は自らも部下の従業員とともに汗を流す日々だったという。

「西武グループ再編でさらにがんばっていこう、そんなタイミングだったので人もギリギリで回していました。なので、マネージャーと言いながら完全に”プレーイング”マネージャーでした。

でも私よりも部下の方がよく理解している。そんな中でやっていましたね。素直に部下に聞きながら1つ1つこなしていました。なにせわからないですから(笑)」

ホテル業務の全セクションと関わる

配属先は同ホテルの中心地である品川・高輪エリア。国内向けの宿泊企画と宣伝を担当し、インターネット向けの宿泊予約サイトの商品造成及びプロモーション、四季ごとの宿泊プランの企画を主に行った。

食事や催事なども含まれるためホテル業務の全セクションに関わる仕事だった。

「ホテル業務には様々セクションがあります。宿泊・レストラン・ブライダル・営業管理系などたくさんあって、その中でもフロント担当や客室担当、調理担当もいます。私はマーケティング戦略で宿泊企画をやっていましたので、その各セクションの人たちと対等に話せないといけない。

全てが未知の経験。しかし、球団の社員へ転身以降ずっとこの連続だった。それでも目の前の壁を1つ1つ乗り越え、結果へと変えてきた実績がある。以前までと同様に、不明な点を周囲に聞いて解消しながら積み重ねていった。

特にマーケティング戦略の話というのは、各セクションの方にとっては通常業務にプラスαになるので負荷がかかる。さらに仕事が増えることをお願いしに行くわけですよ。そこは気を遣いながらやっていましたね」

未経験の世界でも一つ一つ真摯に向き合い身につけていった

ホテルマンを振り返った際も表情から相当な苦労が伺えた。「1日の時間は長かったですよ」と苦笑いを見せた。

「最後は各担当マネージャーとも対等に話ができるようになり、支配人クラスのミーティングとかでも企画書を提出するところまで行きました。でも、時間をかけましたね。夜0時5分の品川発に乗らないと終電に間に合わなかったので毎日のように駆け込んでました(笑)」

ホテルマンとしては17年3月までの5年強。球団の社員に転身後最長のキャリアだった。それでも心の中でライオンズへの想いは常に持ち続けていた。

第5回へつづく

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