千葉ドリームスター 山岸英樹 エースが描く不屈のストーリー「障がいがあっても健常者に負けない動きを見せたい」

研究と実践が礎に

野球から離れた後は、毎日地元のジムに通いトレーニングを継続した。病院と連携しており、プロ野球選手もメディカルチェックに訪れる施設が自宅の近所にあった。

元々中学1年からリハビリのために通っていたが、部活動を辞めて時間ができたため、再度トレーニングや野球の動作を一から見直すことにした。

ジムでのトレーニングに加えて、野球の動作に関する書籍などをひたすら読み漁った。高校までに読んだ本は30冊以上にも及んだ。解剖学や動作解析、トレーニング論などジャンルは多岐に渡る。

中学から始めたトレーニングは今も継続している

自分で勉強して知識を増やすことで、さらにトレーニングについて興味が強くなった。高校卒業後はスポーツトレーナーの道に進みたいと考えた。

オープンキャンパスで東京へ来た際には、野球専門の施設にマンツーマン指導を自費で受講しにも行った。本だけでなく映像資料も購入して勉強していたが、そこで不明なところは対面で質問することで疑問を解消していく。

そして卒業後、上京してスポーツトレーナーの専門学校に進学した。これまで研究してきたことに加え、学校の講義で得た知識を合わせることでさらに理解が深まった。

自分の体で実践することで頭と体両方で理論を形にした。その過程で体もさらに回復し、打球の飛距離が伸びていくのを実感した。このストイックかつ研究熱心さが以降活躍するための礎となる。

13年ぶりに再びグラウンドへ

28歳で障がい者手帳を取得できたのを機に、障がい者スポーツを始めようと考えた。その時ある記憶とリンクした。2006年、“もう一つのWBC“と呼ばれる障がい者野球の世界大会が日本で行われていた。テレビで特別番組が放送されていたのを当時見た記憶があった。

すぐにインターネットで障がい者野球について調べ、日本障害者野球連盟に問い合わせた。そこで千葉(当時:市川)ドリームスター含む3チームを紹介された。

当時178㎝、83kgの体格を誇り、野球理論とストイックさを兼ね備えた男を各チームが放っておくはずがなかった。どのチームも「ぜひ来てほしい」のラブコールを送り続けていた。

17年、千葉ドリームスターに入団。野球を再開した

3チーム全ての練習に参加し、最終的にドリームスターのユニフォームを着ることを決めた。その理由を2つ挙げた。

「練習に参加してみて、すごく活気のあるチームだなというのが強く印象にありました。あと、(17年)当時ドリームスターは招待枠で神戸の全国大会に進んだ年でした。これから強くなっていくチームだと感じました」

高校入学後に志半ばで断念したが、13年ぶりにユニフォームを着て再びグラウンドに帰ってきた。野球人生が再開し、止まっていた時計が動き始めた。

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