身体障害者野球日本代表・小寺伸吾 左手首切断から名門チームのスラッガーへ。2年間のリハビリに希望を照らした身体障害者野球との出会い
9月に行われた「第5回世界身体障害者野球世界大会」。日本代表が世界一となり、もうひとつのWBCでも連覇を達成した。
その立役者の一人が小寺伸吾選手。4試合を通じて打率.667をマークし、大会首位打者に贈られる「長嶋茂雄賞」に輝いた。
身体障害者野球の門を叩いてから8年で手にしたタイトル。10年前に事故に遭った時は野球ができないかもしれないと絶望感に陥ったこともある。
当時の状況から身体障害者野球との出会い、そして日本代表での活躍などを語ってもらった。
(写真 / 文:白石怜平、以降敬称略)
10年前仕事中の事故で左手首を切断
小寺は兵庫県出身の34歳。小学3年生でソフトボールを始め、中・高と野球部に所属。大学進学後は硬式野球部で1年プレーしていた。
転機が訪れたのは10年前の11月だった。当時配管工事の設備系の仕事をしており、病院の新築工事現場を担当していた。その仕事中での出来事だった。
「現場でパイプを切る作業をしてまして、パイプを切る高速カッターの刃に左手首が触れて一瞬で切れてしまいました」
その後救急隊が駆け付け懸命に受け入れ先を探し、ドクターカーやヘリなどを乗り継いで姫路から神戸へと移った。救急隊の連絡が実り、怪我してから2時間後には緊急手術が行われた。手術直前のことを振り返った。
「切れた手を繋げるか、義手にするか。お医者さんからそれぞれのリスクなどの説明を受けて、まずは切れた手を繋ぐ方を選びました。繋ぐと毒素などが心臓や脳に行くと命の危険や後遺症が残る可能性があるのと、義手にすると骨を削ったり肉を移植するという話だったので、それは想像すると怖かったので前者を選びましたね」
12時間に及ぶ手術は成功し、説明された際に受けた後遺症も幸いなかった。
事故発生後から病院に移送されるまでの間、至って冷静で救急隊とフランクに会話していたという。しかし手術から目が覚めると、家族や職場の面々の姿を見ると、徐々に心境が変わっていった。
「まず、みんなに心配かけて申し訳ないと謝りましたし、次の日病室で起きたときには絶望感が一気に来ましたね。その時は草野球もしていたので、『もう野球とかもういろんな遊びとかできんな』とか、『結婚もできんのかなぁ』などだいぶ気持ちが落ちてしまってたんですね。
でも包帯の中で手首が見えてて、そこから動かしてみると少し動いたんです。『これ、もしかしたら、動くようになるかもしれない』その時に希望が見えたと感じました」
さらに復帰に向けた活力になるものが、ふと頭の中に浮かび上がってきた。
「病室で『やっぱり野球はできないのかなぁ…』などと思っとったんですけど、前に身体障害者野球って聞いたことがあるなと。松葉杖で打って走っている映像を何かで見たのを、怪我して2日目かに思い出したんです。『もしかしたら俺も野球やれるかもしれない』と、さらに望みが湧いてきました」
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