• HOME
  • 記事一覧
  • 野球
  • 元西武・高木大成 「波乱万丈でした」10年間のプロ生活で味わった栄光と挫折〜著書出版記念特別インタビュー第1回〜

元西武・高木大成 「波乱万丈でした」10年間のプロ生活で味わった栄光と挫折〜著書出版記念特別インタビュー第1回〜

かつて西武ライオンズで「レオのプリンス」と呼ばれ、主力打者として活躍した高木大成氏。(※「高」はハシゴ高)

05年の引退後、現在は球団の社員となり今もライオンズを支えている。21年4月にその半生を綴った著書「プロ野球チームの社員(ワニブックス刊)」を出版した。

今回、これを記念したロングインタビューを全6回に分けてお送りする。第1回は少年時代から憧れたライオンズへの入団から10年間のプロ野球生活を振り返る。

(取材協力 / 写真提供:西武ライオンズ 、文:白石怜平、以降敬称略)

ドラフト1位で”相思相愛”のライオンズへ

1996年、西武ライオンズにドラフト1位で入団。子どもの頃からライオンズファンで、西武球場(現:メットライフドーム)に通っていた高木にとって”相思相愛”の関係だった。当時の嬉しかった気持ちが強く残っている。

「ライオンズから声をかけていただいたっていうのが非常に嬉しかったです。他球団からもお誘いをいただきましたが、”まずバッティングを活かそう”という方針でした。

でも、ライオンズだけは”キャッチャーでまずやってみよう”と。両親が福岡出身で西鉄ライオンズを応援していたというのもあって小さい時からファンでしたし、本当にありがたかったです」

ただ、当時の正捕手は伊東勤(現:中日ドラゴンズヘッドコーチ)。80年代中盤から”レオの頭脳”として黄金期を担った不動の存在。高木もその牙城を崩すことは容易でないことは承知だった。

「プロに行くのならライオンズと思っていました。伊東さんがいる中で、キャッチャーとしてすぐ出られるなんて考えていなかったですし、何よりライオンズが好き。純粋にその想いでやってみたいなと」

「2ストライク取られた後にどれだけ対応できるか」試行錯誤の1年目

憧れのライオンズブルーのユニフォームに袖を通し、始まった1年目の春季キャンプ。桐蔭学園時代は甲子園を湧かせたスラッガーとして名を馳せ、慶應義塾大学時代は当時の東京六大学の通算最多二塁打数27をマークするなど、その打撃も魅力であった。

しかしキャンプではプロのスピードや変化球のキレなど、レベルの違いを感じた。キャンプに初日にまずバッティングピッチャーの球ですらケージから出なかったという。

「そんなところから始まったので『あれ?』って。なので、ボールまでのコンタクトをいかに速くするかを考えていました。と言っても判断を速くしてしまうと変化球に対応できない。ボールとバットを最短距離で捉える、判断をギリギリまで見極めていかに速くコンタクトするかを徹底して練習しました」

自身で考え工夫を凝らしつつ、当時の土井正博 一軍打撃コーチからもアドバイスを受けながら適応していった。

「基本的な打撃フォームは変えなかったですが、一番は『2ストライク取られた後にどれだけ対応できるか』なんですよ。変化球待ちでストレートをファールにするために、追い込まれたらノーステップに切り替えたりもしました。

当時土井さんが打撃コーチで、オープン戦の間だけは『2ストライクまでバットを出さない』というのを実践しました」

こうした取り組みが徐々に実り、常勝軍団の中でルーキーかつ捕手の重責を務めながら80試合に出場。打率.278の成績を残し、翌年の更なる飛躍につなげた。

97年・98年は主に3番としてリーグ連覇に貢献 ©︎SEIBU Lions

こだわってきた捕手を捨て、掴んだ栄光の2年間

迎えた2年目の97年、高木は開幕スタメンを勝ち取る。当初は3番・DHで出場を続けていたが、4月30日からは本職の捕手ではなく一塁の守備に就く。

そして4月下旬、遠征先の福岡で東尾監督に呼ばれた。一塁手へ正式なコンバートの提案だった。

「4月の下旬頃だったと思うのですが、清原さんが巨人に移籍して当時ファーストを守っていたマルティネス選手(元西武-巨人)をDHにしたいと。そこでポジションが空くので『打撃を活かしてファーストに行かないか』という話でした」

高木も当初は複雑な想いがあった。少年時代から守ってきた捕手に強いこだわりがある。ライオンズに入団したのも唯一捕手として迎えてくれたことが理由の1つだった。

でも伊東の地位は揺るがない。西口文也・潮崎哲也をはじめとする強力投手陣を引っ張ると共に、この年は打率.280を残すなど打撃も好調だった。

「最終的な結論としては、1軍でレギュラーを張ることがプロとして求めていきたいところだったので、試合に出るためにコンバートを受け入れる決断をしました」

ただ、一塁というのは、外国人選手が守るケースが多い。「ファーストの場合は、外国人の大砲が来たら出られなくなるので、そこのリスクはありました」と語るほど、高木にとってもコンバートに迷った理由の1つであった。

”ファーストは高木に”そう思わせるプレーを意識

それでも常時試合に出るために、自ら掴みにいったポジション。外国人選手にはない”自分ならでは”のできることを磨いていった。

「まずエラーをしない。形関係なく何でもいいから捕る。それと外国人にはないプレーをする。例えばバント処理でセカンドアウトを取りに行くことも積極的にやりましたし、牽制アウトをいかに取るかもそうです。

とにかく毎試合出ることのありがたみを感じながらやってましたし、日本人のファーストとして体も大きくない中で、『ファーストは高木に守らせたほうがいいよね』と思ってもらえるようプレーしていました」

DHから一塁という大きな変更がありながらも影響を感じさせず、打線の中軸を担った。チームも前年まで連覇しているオリックス・ブルーウェーブ(現:オリックス・バファローズ)との争いを制し、94年以来のリーグ優勝を果たした。※日本シリーズでは野村克也監督率いるヤクルトに1勝4敗

シーズンのチーム盗塁数は200をも数える。特に松井稼頭央(62盗塁)・大友進(31盗塁)、そして高木(24盗塁)の上位3人で計117盗塁を記録するなど機動力が大きな武器となった。

この年、130試合に出場し打率.295・7本塁打・64打点。オールスターに初出場を果たし、シーズン中のコンバートながら一塁手としてゴールデングラブ賞も受賞するなど大きく飛躍した。

翌98年も、不動の3番・一塁としてリーグ連覇に貢献。前年を上回る134試合に出場し、打率.276ながら17本塁打、84打点をマーク。横浜(現:DeNA)ベイスターズとの日本シリーズでは初戦に本塁打も放った。そして2年連続オールスター出場・ゴールデングラブ賞受賞というさらに充実した年になった。

翌99年はキャンプ中に右足首靱帯断裂という大怪我に見舞われながらも5月に復帰。中盤からは5番を打ち、3年連続でオールスター出場を果たした。

最盛期と言える2年間、「毎日緊張感のある試合が続いていましたが、優勝争いができることを楽しんでいました。特に97年はチームが200盗塁して自分もその一員でしたので、充実していました」と振り返った。しかし、こう続ける。

「その反面、身体はどんどん壊れていく。それだけ出続けられる身体を持っていなかったのです」

97年には24盗塁と機動力も発揮した。©︎SEIBU Lions

00年以降、怪我との闘いに

高木が感じていた諸々の不安は現実味を帯びていった。00年はトニー・フェルナンデス、レジー・ジェファーソンというメジャーで実績のある外国人選手が入団。さらに01年にはアレックス・カブレラ、スコット・マクレーンの”ツインバズーカ”が加入し、一塁は自身がリスクと語った通り外国人の大砲が守った。

一方、自身は出場機会を増やすため00年から外野手へ挑戦するものの、身体は悲鳴をあげる。左膝や右手首・右腕など続けて故障し戦線離脱を繰り返す。出場数も02年には36試合に留まるなど我慢の日々が続いた。

03年には5月に4試合連続本塁打を放ち、復活の兆しを見せるもオフに右腕を3箇所手術。04年はリハビリに専念し一軍に上がることはなかった。 05年に復帰するも13試合の出場に留まり、戦力外通告を受けた。

後半は怪我との闘いだった。当時の心境を語った。

「もう焦るばかりでしたね。今考えれば1年棒に振ってでも休めばよかったのかなと思う時もあるんですけれども…1軍に呼ばれたら辛くても呼ばれることが喜びなので『行きます』と無理して出ていましたから」

著書にも少年時代から鍼治療に行くなど「身体は強くなかった」と記されている。野球を始めてから辞めるまでずっと向き合っていた課題だった。

「昔から身体は強くないと分かっていたので、ウェイトトレーニングをしたり、1年目から治療を受けたりして何とかやっていました。トレーナーさんには本当に感謝の気持ちでいっぱいです」

”波乱万丈”のプロ野球人生

高木の10年に亘るプロ野球生活は、前半は主力として活躍しチームを優勝に導く一方で後半は故障に苦しんだ。栄光も挫折も両方味わってきたのだ。

この10年はどんなプロ生活だったか。「波乱万丈でした」と答え、こう続けた。

「オールスターも出場できて、ゴールデングラブ賞もいただくなど『プロ野球選手になれて良かった』と思えた3年間があり、その後は苦しい、辛いリハビリ生活があり。濃い10年間でしたね。

優勝を経験できましたし、日本シリーズは負けましたけれどもホームランも打てましたから、(プロ野球選手としての)幸せを感じることができたと思います」

ただ、05年オフに戦力外通告を受けた時、現役を続けるか否か。その葛藤があった。

第2回へつづく

【関連記事】
「ファンと選手双方にメリットがある」元西武・高木大成が提案した ”ホームを3塁側に”

元西武・高木大成 野球界から離れホテルマンへ「素直に部下へ聞きながらこなす」奮闘の日々

名前がコールされ悲鳴も…石井丈裕 早実時代の下積みと消えなかった勝負師の炎「まだまだ勝負してみたかった」

関連記事一覧