「ライオンズはまだまだやることがたくさんある」元西武・高木大成が振り返る引退の決断と球団の社員への転身〜著書出版記念特別インタビュー第2回〜
かつて西武ライオンズで「レオのプリンス」と呼ばれ、主力打者として優勝にも貢献した高木大成氏。(※「高」はハシゴ高)
05年に現役を引退し、現在は球団の社員となり今もライオンズを支えている。21年4月にその半生を綴った著書「プロ野球チームの社員(ワニブックス刊)」を出版した。
今回、これを記念したロングインタビューを全6回に分けてお送りする。第2回は現役引退から球団の社員になるまでに至った経緯について語る。
(取材協力 / 写真提供:株式会社西武ライオンズ、文:白石怜平 ※以降敬称略)
約1ヶ月悩んだ末、引退を決断
2005年10月、10年目のシーズンを終えた高木は球団から戦力外通告を受けた。
当時31歳で突きつけられた厳しい現実。他球団で現役続行か、もしくはユニフォームを脱ぐかー。大きな決断を迫られることになった。
「03年のオフに、右腕に3箇所メスを入れる大きな手術をしました。なので、04年は1軍に1度も上がれませんでした。05年になって少しずつ傷が癒え始めましたが、大きな手術だったので思い通りには動かない。
でも、もう1年やれば05年よりもパフォーマンスが良くなることは自分では見えていたので、そこで相当迷いましたね」
プロ入り時の監督だった東尾修氏など、周囲にも相談しながら約1ヶ月間悩み続けた。そして最終的に下した決断は引退、球団の社員への転身だった。
「(12月で)32歳という年齢もありましたし、ライオンズからは『球団で働いてみないか?』と声をかけていただいていました。プレーしていて『チームが強いのになぜ観客が入らないのだろう』というのが常に頭の中にありましたし、新たなチャンスを貰える機会は中々ないので決断しました」
”選手としての”意見を言える唯一の立場
著書の第1章の中に「サラリーマンになるチャンスが魅力的に思えた(中略)」と記されている。
現役時代はスポットライトを浴びながら3万人の大観衆を背に主力としてプレー。強豪チームで97年・98年の連覇に貢献した男からは意外な表現だと感じた。その真意を問うてみた。
「選手としての意見を言える唯一の立場なので、ゼロから球団を創り上げられる。そこに希望を感じました。当時はいわゆるファンサービスが常に行われていたわけではなく、04年のある出来事をきっかけに始まりました。
なのでやり始めれば間違いなく顧客満足度が上がるのはわかっていたので、その点では『ライオンズはまだまだやることがたくさんあるな』と」
”ある出来事” これは当時の大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブ(現:オリックス・バファローズ)の合併構想から始まった球界再編問題のことである。
日本プロ野球選手会会長だった古田敦也を中心に、選手会側は経営者側とシーズン中にも関わらず幾度となく話し合いを重ねた。途中、もう2チームを合併させ10球団・1リーグ構想への流れが進むなど混迷を極めながらも、選手会の尽力により2リーグ12球団を守り現在に至っている。
高木は当時、前年オフの手術の影響でリハビリに専念していた。自身も野球ができない焦りに加え、グラウンド外で出来事にもどかしさを隠せなかった。
「私はメディアを通じてしか知ることができなかったのですが、憶測などで色々な報道がされていましたね。当時は古田さんを先頭に2リーグ12球団を維持するべく戦っていましたが、まさに同じ気持ちでした。Jリーグも当時からすごい盛り上がりを見せていたので野球界への危機感はすごく感じていました」
高木が現役だった10年間(96年〜05年)は、上記の合併と同年オフのダイエーからソフトバンクに譲渡される以外は球団の親会社が変わる事すらなかった。
そのため、「『球団が変わることが現実に起きるんだ』という驚きはありました」と04年時の心境を語った。
「チームが強いのにお客さんが入らない」現役時に抱いていた課題
高木が球団の社員に転身する大きな理由の1つとして、現役時代に抱いていた疑問だった。それは上の発言にもあった
「チームが強いのになぜ、お客さんが入らないのか」
西武ライオンズは78年オフに誕生後、リーグ優勝18回・日本一10回を達成。現在もプロ野球記録である25年連続Aクラス(82〜06年)を成し遂げ、18・19年もリーグ連覇するなど強豪チームとして君臨し続けている。
観客動員数も新型コロナウイルス禍で入場制限がかかる20年より前までは、15年から19年にかけて毎年球団記録を更新。19年は1試合平均で25,000人以上を動員するなど、球団のたゆまぬ努力で多くのライオンズファンが球場へ足を運んでいる。
しかし、自身が現役でプレーしていた頃は、セ・リーグとパ・リーグで観客数の差がまだ大きかった時代。巨人・阪神戦が組まれるセ・リーグの試合は満員になる一方、パ・リーグの球場は空席が目立つシーンも多くあった。
高木が在籍していた間、チームは全てAクラス。97・98年は主に「3番・一塁」で主軸を担い連覇に貢献した。レギュラーとして毎日グラウンドに立っていたからこそ、疑問はなおさら強く感じていた。
「選手はホームゲームでしたら打撃練習のあと一度引き上げて、試合前のシートノックで再度グラウンドに入るのですが、その時に観客がどのくらいいるかスタンドを見るんですよ。我々はプロですし、応援や歓声でよりパフォーマンスが上がるので、そこは誰もが感じながらやっていたのではないかと思います」
当時は「チームが強い=スーパースターがいる=観客が増える」という仮説が立てられていた。
「実際ライオンズは強いし、松井稼頭央(現:二軍監督)や松坂大輔が活躍したりなど、連日メディアに登場するスター選手もいました。それでも満員になるのは土日のデーゲームだけ。すごくもどかしさがありました」
まずはファンサービスを見直して多くの方にライオンズの魅力を知ってもらう。高木はこのミッションを背に第二の人生の幕が開けた。
(第3回へつづく)
【関連記事】
元西武・高木大成 野球界から離れホテルマンへ「素直に部下へ聞きながらこなす」奮闘の日々