“義足の野球人”石井修 ハンデを乗り越えた挑戦の記録「障がいを持っていても野球はできる」

試合中、グラウンド上でひと際大きな声がグラウンドで響き渡る。

その選手の名は石井修(いしいおさむ)。

身体障がい者野球チーム「千葉ドリームスター」の内野手で右足が義足の選手である。前後だけでなく、左右の動きも要求される野球では、義足でプレーする選手は希少であり、石井もチームで唯一の義足のプレーヤーである。

45歳を迎えた現在も攻守、そしてムードメーカーとして大きな存在感を放っている。

1歳時、骨肉腫で右足を切断

埼玉県出身の石井は1歳の時に骨肉腫を患い、右足の大腿部から下を切断した。

物心が付くころにはすでに義足だったため、足を切断したことは記憶にはない。幼少時から運動会にも参加しており、周囲の仲間にも恵まれたおかげで劣等感を感じることも全くなかった。

ただ、小学校から中学生へと活発になるにつれ、日常生活では大変になったという。当時を笑いながら振り返った。

「当時はベルト式で足を繋いではめ込んでいました。しかも膝は曲がらない。動き回るとすぐ壊れましたよ。毎回母親が池袋まで義足抱えて修理に行ってくれて。よくお医者さんに言われたのは『戦争の時にしていた義足』だって(笑)」

現在は軽量化されて膝が曲がるものに進化し、日常生活でも大きな支障はない。また、野球をする際も同じのを使用している。

一度は挫折するも23歳で再び野球に

野球との出会いは小学5年生の時、兄も在籍していた地元の少年野球チームに入団した。しかし、試合にはほとんど出場することができなかった。

中学では一度スポーツからは離れたが、高校入学後に地元のジムに通う。下半身にハンデを持つため、上半身を鍛えようと考えベンチプレスを中心にトレーニングを始めた。22歳の時、その成果を発揮する。

「第9回全日本ベンチプレス選手権大会」に出場し、金メダルを獲得した。競技を続けてパラリンピックを目指すという選択肢もあったが、競技には一区切りをつけた。

「日本一になってやりきった」という達成感が勝ったのと、小学生の時に試合にほとんど出れずに終わった野球への想いが片隅に残っていた。

22歳の時、ベンチプレスの大会で日本一に(本人提供)

その後は地元の障がい者ソフトボールチームに入団。

また野球をやりたいという想いを持っていた中、23歳の時にチームメートから当時存在していた障がい者野球チームを紹介され、即入団を決めた。

当時のポジションは遊撃手。三遊間を義足の選手で売り出すチーム方針で抜擢され、約15年間守った。打者としてはクリーンアップを打ち、強いフィジカルを活かした長距離打者として中軸を担う。

月2~3回の練習には欠かさず参加した。北関東への遠征や健常者のチームと試合するなど実戦も重ね、力を付けていった。

今もレギュラーとしてプレーしているのは当時の猛練習が礎になっている

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