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五十嵐亮太 日米23年のキャリアから語る日本野球の現在地〜後編〜「アメリカでは全て自分で決めなければいけない」

ナックルカーブを武器にモデルチェンジ

激動の3年目が終わったあと、アメリカではやり切った気持ちもあった。この経験は無駄にはならないと感じるとともに、日本に戻ってどのくらい通用するのかを試したい気持ちが湧いてきた。

そして複数球団の争奪戦の末、福岡ソフトバンクホークスに入団した。きっかけの1つとして少年時代のエピソードを披露した。

「僕秋山さん(幸二:当時監督)のファンだったんですよ。僕、中学生の時に千葉マリン(現:ZOZOマリン)でホークス戦を観に行ったんですよ。その時にサインをもらったことがあって”あの秋山さんだ”って思いました(笑)」

メジャーから日本に戻り、ホークスに入団した経緯を語った

復帰後、期待に違わぬ活躍をした。移籍1年目は51試合に登板、防御率も2.53と安定した投球を披露。

14年、15年も50試合以上登板・2年連続で防御率1点台を記録し、チームの日本一連覇に貢献した。ただ、その裏では自身には決め球がないという課題を持っていた。13年に自らファームでの調整を申し入れた。

「当時、真っ直ぐ・カットボール・ツーシームだったんですけども、日本だとバットコントロールある打者が結構いるので、大きく曲がる変化球を身に付けたいと思い、ナックルカーブの練習を本格的に再開しました」

さらに契約を更新した16年オフ、当時37歳だった五十嵐は成長を求め、メキシコのウインターリーグに参加する。向上心はベテランになっても衰えることはなかった。

「この年は投げ足りなかったんですよね。(33試合登板)自分の中でフォームや新しい何かを見つけなければと感じたので、肘の角度だったり投げ方を変えるために行きましたね」

迎えた17年、故障で途中離脱しながらも46試合で6勝を挙げ防御率は1.53。チームの日本一連覇に貢献した。この年あたりからフォームなどに細かい改良を入れ始めた。変化を恐れず様々なことを試し、1番の武器だった速球派投手からモデルチェンジした。

18年まで在籍したホークスの強さの要因について聞かれるとこう答えた。

「選手の育つ環境や条件が揃っていますね。選手の数も多くて、自然と競争意識が高くなっていました。怪我をして戻ったらもう居場所がないことはよくありました。野球以外でもファンとの距離感や九州全体を見た営業努力含め、選手が頑張れる条件が揃っているのではないかと思います」

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