• HOME
  • 記事一覧
  • 野球
  • 五十嵐亮太 日米23年のキャリアから語る日本野球の現在地〜後編〜「アメリカでは全て自分で決めなければいけない」

五十嵐亮太 日米23年のキャリアから語る日本野球の現在地〜後編〜「アメリカでは全て自分で決めなければいけない」

2012年、自ら濃くした3年目

11年末にピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結んだ。実は日本の球団含む複数球団からオファーも来ており、葛藤もあったという。

「最初は日本に戻ることも含めて迷っていたんですよ。でも、ここで戻ってしまったら自分が2年間で得たものが寂しい感じがしました。なので3年目でどこまでできるか、結果以外にも吸収するべきだなと感じたので、自分から意見を主張し続けた年でしたね」

2012年が特に濃い1年だったと語る

パイレーツではキャンプ中にマイナーを宣告された。ドミニカでマスターしたカットボールにも手応えを感じていたのもあり、悔しさはこれまで以上にあった。やはりメジャーでやらないと意味がないと考え、オプションを行使しFAに。その後すぐにトロント・ブルージェイズに移籍し、3Aラスベガスに合流した。

「日本人の発想だと少ないかもしれないですが、結果を残しているのに何で上げないんだということを言っていました。チーム事情などは理解していましたが、自分には時間がないので当時はすごく意見を言っていましたね」

当時監督だったのが広島・楽天でも監督を務めたマーティ・ブラウン氏だった。五十嵐の理解者として、「何かあったらいつでも言ってくれ」と声をかけ、精神的な支えとなった。

ラスベガスでも結果を残し5月にメジャー昇格。移籍後初登板は今でも強烈に印象に残っているという敵地でのレンジャーズ戦、立っているだけで倒れそうな猛暑の中でマウンドに上がった。

球数を50球以上費やすなど本来の投球ができず、その試合後にマイナー降格を告げられた。残された時間は少ないと考えていた五十嵐はここでも野球浪人覚悟でFAを選択した。

家族のいるニューヨークへ戻った2日後、ニューヨーク・ヤンキースからオファーが届く。3Aスクラントン合流後約1週間でメジャー昇格。伝統のピンストライプのユニホームを着ることになった。

「ヤンキースのユニホームを着れるんだってうれしかったですね。黒田さんとイチローさんもいて、一緒にやった方1人1人凄かったですから」

その他にもデレク・ジーターやアレックス・ロドリゲス、ロビンソン・カノらスーパースターが名を連ねていた。しかし、その後すぐにチーム事情で降格。それでもめげずに結果を残し2度メジャーに復帰する。

「できる可能性を信じてカーブを練習していました。ゆくゆくは自分の武器になるんですけども、指を立てろと言われてできるわけないと思いながらやっていました笑。チームメートに話を聞きながらやってどこに行っても刺激は強かったですね」

ここで取り組んだナックルカーブが後々の選手生命を延ばす大きな武器となる。この1年だけで3球団を渡り歩き、自ら濃くした1年となった。また、激動だったアメリカでの生活を以下のように振り返る。

「これまでは自分で選択することに慣れていなかったんですよ。アメリカでは自分で決めなければいけないし、選択肢もあふれていました。野球に関して言うと、何をしたいか主張するというのは大事だと思いました」

関連記事一覧