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五十嵐亮太 日米23年のキャリアから語る日本野球の現在地〜後編〜「アメリカでは全て自分で決めなければいけない」

2020年、23年にわたる現役生活にピリオドを打った五十嵐亮太氏。

今回、スポーツビジネスアカデミー(SBA)が運営するオンラインサロン「THE BASE」の特別企画、『五十嵐亮太選手のキャリアを振り返りながら考える「日本プロ野球の現在地」』にオンライン出演し、自身のプロ野球人生を振り返った。

前編では、20年来の親交があるField-R法律事務所弁護士の山崎卓也SBA理事とトークセッションを通じ、第1次ヤクルト時代と日米の制度の違いについて語った。

後編では様々な刺激があったという3年間のメジャー時代、そして日本復帰後についてお届けする。(以降、敬称略)

憧れのメジャー挑戦へ

09年オフ、ヤクルトからFA宣言した五十嵐はニューヨーク・メッツと2年契約を結んだ。メジャー複数球団から来ていたオファーの中から、過去に日本人選手が多く在籍していたことなどからメッツを選んだ。

キャンプからメジャーに帯同。開幕ロースター入りし、序盤は防御率1点台をキープするなど順調なスタートだったが、4月下旬に肉離れで故障者リスト入り。5月に復帰するも思うような結果が残せず7月にマイナーへ降格した。当時の心境を振り返った。

「何が自分で足りないかということで、まず変化球を自分のモノにするよう時間を費やして、降格後は上がるためにどうするかをひたすら考えていましたね」

8月下旬に再昇格し、9月にはメジャー初勝利を挙げるなど34試合に登板した。しかし、防御率は7.12と翌年に課題を残した。

11年はキャンプ前に40人枠から外れてしまう。開幕は3Aバファローで迎えたが、4月にメジャー昇格。5月に降格となるも、3Aでは防御率0点台と結果を残し、7月に再昇格した。最終的に前年を上回る45試合の登板で4勝を挙げた。

メジャー挑戦前はストレートとフォークが中心。アメリカでは主流の動くボールを身に付けるため、カットボールやツーシームをひたすら練習した。

「最初は真っ直ぐに力があったので抑えられていましたが、自分の持ち球じゃやっていけないのはキャンプから分かっていました。新たな武器としてマイナーで練習していましたけども、数ヶ月の間でできるかというと、できないんですよ。でも時間がないからやるしかない。2年終わった時にドミニカへいきました」

11年シーズンの終了後に代理人にチームを探してもらい、ドミニカのウインターリーグに参加し、11月下旬から約1ヶ月間プレー。そこでカットボールをマスターする。

ドミニカは野球以外でも新たな発見があった。現地の選手がみな護衛のために銃を持ちクラブハウス内に保管したり、マウンド上で停電になったりとハプニングの連続だったと笑いを交えて振り返った。

その後はマイナーとメジャー・日本の違いやアメリカでの過ごし方の話題に。

メジャーとマイナーの環境差も大きい。メジャーではチャーター機が用意され、空港から球場へ誘導されるがマイナーは試合終了直後にバスに乗り込み、7時間ほどかけて移動することもある。ナイター後の移動となると到着は朝になり、仮眠後すぐ試合というハードなスケジュールだったという。

五十嵐もマイナー時代は遠征が多いため、自宅に帰れることはほとんどなかった。ここで日本との大きな違いを感じた。

「僕はマイナーの時はホテル暮らしで部屋も自分で取っていました。日本だと1・2軍ともにキャンプから移動やホテルも全て用意してもらえます。アメリカの場合はキャンプ地に自分で行って、住むところも見つけて、球場への移動も全て自分で行わなければならないんですね。でもそのほうが意識的にはいいと思いましたね」

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