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辻発彦さん 講演で語った”挑戦”の人生 「厳しければ厳しいほど燃えた」反骨の精神で築いた現役時代を振り返る

一昨年まで西武監督を務めた辻発彦さんが6月30日、東京国際フォーラムで行われた「第59回日本理学療法学術研修大会内の公社)東京都理学療法士協会が担当する公開講座」の講演会に登壇。

「野球から学ぶ 人生への挑戦」というテーマで約1時間半、これまで野球を通じて挑戦を重ねてきた人生を振り返った。

(写真 / 文:白石怜平)

「自分で決めたこと」に向き合った社会人時代

講演では野球との出会いからスタートした。佐賀県出身の辻さんは、小学生時代は放課後に近くの広場で野球をするなど常に野球が身近な存在だったという。

また父も大の野球好きで、隣の福岡県に当時本拠地があった西武の前身・西鉄ライオンズのファンだった。自身が将来プレーし監督まで務めるライオンズには少年時代から縁で結ばれていたかのようだった。

「父と一緒に平和台球場に何度も足を運んで、生で野球をたくさん観れました。稲尾和久さんや中西太さんら素晴らしい選手たちがいらっしゃったので憧れがとても強くなりました」

少年時代からライオンズに縁があった

小学生で本格的に野球を始めた辻少年は中学卒業後、公立の佐賀東高校へと進学し主将として活躍。卒業後は社会人野球の日本通運に進み、硬式野球部に入部した。地元を離れ、寮がある埼玉の浦和へと移った。

当初は「3年間やってもしダメなら諦めて社業に専念しよう」と考え、必死に取り組んだ日々を振り返った。

「誰にも負けたくない。〇〇がテレビ見ているとなれば ”よし、チャンス!”と思ってその間も練習していました。そこが身になっていったのだと思うんです。自分が”こうなりたい”と決めたことを対して実行するパワーを感じました」

”自分で決めたこと”に向き合いプロへの道が切り拓かれた

練習するにおいても当時はまだデータ分析などなかった時代。個人練習では自ら課題を見つけ、考えながら試行錯誤をしていった。

「周りと比べて足が遅いと感じていたんで、どうやったら足が速くなるかを考えたんですね。腕をたくさん振れば連動して、足が速く回るんじゃないかと。

スイングした後に、0.5キロの鉄アレイをとにかく速く振ったんですね。それが功を奏したか分からないですが、本当に速くなりました。プロに行くまでに盗塁してもアウトにならなかったんです」

着実に実力をつけた辻さんは大会にも出場するようになる。横浜スタジアムで逆転本塁打を打ったシーンが新聞に載ったこともあり、プロのスカウトの目に留まりはじめた。

入社6年目となった24歳、都市対抗野球に出場するなど活躍を続けていた辻さんの元には、10球団ほどから話が来ていたという。

社会人野球で活躍し、プロからも注目を受けた

当初は頭になかったプロへの意識が芽生えていった時だったが、そのタイミングで野球人生の危機にぶつかってしまう。

「腰を痛めてしまい野球ができなくなりました。病院を転々として診てもらったのですが、最後の先生から『体幹を鍛えましょう』と助言をもらって半年かけてやっと野球ができるようになりました」

この年は全球団に断りを入れた辻さんは社会人野球での最終年(83年)を迎える。故障明けというのもあり、プロ入りするか悩んだと言うが周囲の方々の反応が決め手となった。

「父も前年プロに行くのを断ったのを聞いて残念がっていましたし、すでに知り合っていた今の妻からは『後悔するならやった方がいいんじゃない?』と背中を押してもらいました」

83年ドラフト2位で西武から指名を受け入団。父と共に憧れていたライオンズのユニフォームに袖を通すことになった。

少年時代からの憧れが現実になった

厳しい環境を自身に求めライオンズに入団

辻さんはプロ入りの際、ライオンズに入りたいと思っていた理由が他にもあったことを明かした。

「父も大のライオンズファンで僕も同じ埼玉の浦和にいたのもありますが、当時は広岡達朗監督の管理野球で厳しい環境であることを知っていました。あえてそこに行きたいと思ったんです。

自分も厳しければ厳しいほど”なにくそ!”と燃える反骨心を持っていますから。広岡さんに教えていただければもっと上手くなれる。そう考えていました」

己を知ってプロの門を叩いた

26歳になる年にプロの世界へと飛び込んだ辻さん。都市対抗野球で優秀選手にも選出されるなどその実力を持っての挑戦だったが、第一印象は「とんでもないところに来たな」と感じたという。

当時の西武は前年日本一を連覇し、第一次黄金期を築き上げていた頃。パ・リーグを代表する強豪チームへと変貌を遂げ、後の森祗晶監督時代の第二次黄金期へさらに発展しようとするタイミングだった。

「たくさんいるのですが、秋山幸二や伊東勤もいて一緒に練習するわけですよ『4つも下なのにこんなすごいんだ』と思いましたね」

2年目からレギュラーを獲得し後の活躍へと繋がっていくにおいて、大切にしていた考えを話した。

「上の方々が経験していただいた助言は全て正解ではないかもしれないですが、やってみて判断するのは自分次第です。技術面で僕はアドバイスを受けたらまず試す・体験した上で我慢強く続けることを大事にしていました」

プロでレギュラーを獲れた要因にも触れた

自身が得意としている守備においても「褒められることなんてなかったです」とし、実際に広岡監督からは何度も厳しい指導を受けたという。

「石毛(宏典)さんからも前々から聞いていましたが、僕もたくさん怒られました(笑)。それでも指導してくださったということは、少しでも自分に期待してくれているんじゃないかと感じたんです。褒め言葉だけじゃ人間成長しないと思います」

人の成長としての要素も語った

常勝西武で激しい競争の中で辻さんは不動の二塁手の地位を築き、在籍12年で9度のリーグ優勝・6度の日本一に貢献。

自身でも93年に首位打者と最高出塁率のタイトルを獲得し、守備でも7年連続を含む8度のゴールデングラブ賞受賞という実績を挙げた。

「財産になった」ヤクルト時代

辻さんは95年オフにヤクルトへ移籍する移籍当時のやりとりも明かしてくれた。

「西武を退団することになって、森さんが野村(克也)監督に連絡してくれて『辻が来てくれるなら、ぜひ獲りたい』と即答してくれました。本当嬉しかったです」

ヤクルトにほぼ決まるタイミングで、当時ロッテでGMを務めていた広岡さんからもオファーがあった。プロ入りの決め手となり自身を育ててくれた恩師からのラブコールだったが、最終的にヤクルト入団を決断した。そこには辻さんの持っている芯があった。

「僕のモットーとしては『一番最初に手を差し伸べてくれたところに行く』ことでした。迷うことはなかったです」

自身のモットーを述べた

引退する99年までプレーしたこの4年間も以降に役立つ大きな期間だったと語る。

「今の自分があるのは、野村監督の元でプレーできてセ・リーグの野球そして野村さんの野球も勉強できたこと。後に横浜、中日とコーチで入るので本当に財産でした」

辻さんの活躍は選手としてだけではない。この後に続く指導者生活で、多くの名将の元で帝王学を学んでいく。

つづく

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