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五十嵐亮太 日米23年のキャリアから語る日本野球の現在地〜前編〜「自分の特徴は何かを常に考えていた」

続いて育成についての話題に。入団した98年から1軍デビューする99年は、野村克也監督から若松勉監督に代わる時期。当時1軍では90年代のプロ野球を象徴する黄金時代のメンバーが主力として名を連ね、00年以降もAクラスの常連だった。

ファームはどうだったのか。山崎が問うと、”育成するところ・勝負に行くところのバランス”が取れていたのではないかと答えた。

「1年目でそんな試合(ファーム日本選手権)に投げさせてもらえるなんて思ってもみなかったので、『期待されているんだ!』『ここで期待に応えたらこの先1軍に行ける!』っていう色々な想いが込められた試合が続きましたね」

実際、9月26日イースタン・リーグの優勝が懸かった大一番(ロッテ戦)で先発マウンドを託される。その試合で6回雨天コールドで参考記録ながら完全試合を記録し、リーグ優勝に貢献した。続く10月10日、沖縄・那覇で行われたファームの日本選手権(阪神戦)にも先発。5回を無失点に抑え日本一に導き、シリーズMVPを受賞した。

「当時の2軍監督が八重樫(幸雄)さん、コーチが小谷(正勝)さん・梶間(健一)さんだったのですが、あの場面で使っていただいた感謝は引退した今でも持っています」

他の選手に負けない自分の特徴は何か」を模索

1年目での結果が評価され、2年目の99年から一軍に定着。務めたポジションは以降の現役生活含めリリーフだった。

ファームでは先発中心だったが、当時スワローズの先発ローテーションはエースの石井一久を筆頭に、前年沢村賞の川崎憲次郎、伊藤智仁ら球界を代表する選手たちが名を連ねていた。

1軍の枠は限られており、常に激しい競争が行われている。当時プロ2年目の19歳は”自分が投げられるポジションはどこか”を模索し、生き残るための道を探していた。先発が難しければリリーフでどういった投球をすれば起用してもらえるかを常に考えていた。

「自身と似たタイプの選手などを比較して『ここは難しいな』『ここだったら行けるかもしれない』ということを考えるんですよ。そこでリリーフだったら勝負できるのではないか、さらにチームに何が足りなくて他の選手に負けない自分の特徴は何かを常に考えていましたね」

99年は1軍で36試合に登板して6勝。以降の飛躍につながるシーズンになった。20歳ながら鋭い客観的な分析と柔軟な思考力。辿り着いたのは「球の速さ」だった。

速いストレートは五十嵐の代名詞だ。04年、6月3日と9月20日(いずれも阪神戦・神宮)に当時日本最速の158km/hをマーク。特に9月20日は球界再編の中で行ったストライキ明けの初戦。矢野輝弘(現:燿大 阪神監督)に158km/hを3球連続で投じた。この試合計4度記録し、全国のプロ野球ファンを大いに沸かせた。

1軍に定着して1年目ながら、競っている場面での登板が多かった印象があると振り返る。そういった場面で起用される信頼を得るには何が必要か、山崎が聞いたところこう答えた。

「信頼は結果しかないと思っています。その前にどうしたら使ってもらえるかは、他の選手と比較した時に僕はストレートが速かったのでそれを自分の長所としてアピールしてきました」

プロ2年目から他と比較し、自分の生き残る道を考え続けてきた

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