五十嵐亮太 日米23年のキャリアから語る日本野球の現在地〜前編〜「自分の特徴は何かを常に考えていた」
翌00年は開幕からフル回転。オールスター前までに11勝を挙げ、リリーフながら最多勝争いに加わった。古田敦也捕手と最優秀バッテリー賞を受賞し、球界を代表するリリーフ投手に成長した。
02年からは3年連続60試合以上に登板。04年にはクローザーとして37セーブを挙げ最優秀救援投手に輝いた。同時期に左のリリーフとして活躍した石井弘寿(現:ヤクルト1軍投手コーチ)と共に「ロケットボーイズ」の愛称で親しまれ、同時に相手の脅威となった。
途中故障で離脱するシーズンもありながらも右肩上がりにプロ野球人生を送っていたが、06年に右肘が悲鳴を上げる。シーズン途中に右肘の靭帯断裂が判明し、オフにトミージョン手術を受けた。翌07年はリハビリに専念した。
1年半に及ぶ手術・リハビリを経て08年に復帰。開幕戦で150km/hを超えるストレートを投げ復活をアピール。この試合肉離れを発症するも、4月下旬に復帰。その後も投げ続け、手術前と変わらぬパフォーマンスに戻った。この年は44試合登板で防御率2.47をマークし、国内FA権を取得した。
翌09年は56試合登板で防御率3.18と完全復活を遂げ、海外FA権を行使してメジャーリーグへ挑戦した。
契約更改では代理人制度を活用
メジャーでの話の前に、プロ野球界における代理人とFA制度の話題に。五十嵐は第一次ヤクルト時代から契約更改の際には代理人を立てて行っていた。その意図を説明した。
「交渉の席に出ると自分で長所を言わないといけない。だけど(自分から)いいにくい部分もあるじゃないですか?そこに悩んでいる時間を練習や次のシーズンにつなげることに充てたかった。練習に集中できたのが大きかったです」
NPBでは代理人を使うことについてはまだ浸透はされておらず、選手自身で交渉の席に着くことが多い。球団側も代理人が交渉に臨むことに対して、抵抗感を持つ雰囲気も存在する。
プロ野球選手は個人事業主である。でも、組織の中の1人と難しい立場である。「みんな代理人を使えばいい」と感じている。
NPBにおける代理人制度は、2000年にプロ野球選手会が球団の承諾を得なくてもできる制度であることなどを主張し交渉し導入に至った経緯がある。それが今につながっている。
当時は球団側の抵抗もあり弁護士のみが代理人にとして受け入れられていたが、現在はアメリカMLB選手会の認定代理人も事実上入れるようになり、流れは変わりつつある。
しかし、MLBやJリーグの選手のように代理人が選手にほぼ全員ついているわけではない。その理由は移籍が多いか少ないかによるところがあると山崎は説明した。NPBは移籍が活発ではないため代理人が浸透しきれていない理由の1つになっていると分析する。
また、FAについても議論された。NPBでは現在国内FA・海外FAの2種類がある。
1軍登録145日を1シーズンとカウントし、高卒選手はそれを8シーズン・大卒選手は7シーズンで国内FA(※)、海外FAは全選手9シーズンで取得ができる。
(※07年以降のドラフト入団選手が対象、06年以前は全選手8年)