五十嵐亮太 日米23年のキャリアから語る日本野球の現在地〜前編〜「自分の特徴は何かを常に考えていた」
2020年、23年にわたる現役生活にピリオドを打った五十嵐亮太氏。
160km/hに迫るストレートを武器に20代前半からヤクルトのリリーフエースとして活躍。10年から3年間はメジャーリーグ3球団を渡り歩く。13年に日本復帰後はソフトバンクで日本一連覇に貢献し、19年には10年ぶりにヤクルトへ復帰。積み重ねた登板数は906試合、全てリリーフとして投げ抜いた。
今回、スポーツビジネスアカデミー(SBA)が運営するオンラインサロン「THE BASE」の特別企画、『五十嵐亮太選手のキャリアを振り返りながら考える「日本プロ野球の現在地」』にオンライン登壇。
20年来の親交がある、Field-R法律事務所弁護士の山崎卓也SBA理事とトークセッションを行い、現役生活を振り返った。(以降、敬称略)
「人よりも多く」猛練習でファーム日本一に
五十嵐は1997年、千葉・敬愛学園高校からドラフト2位でヤクルトスワローズ(現:東京ヤクルトスワローズ)に入団。
1年目の98年はファームで過ごした。憧れのプロのユニホームに袖を通し、好きな練習を好きな時間にできる喜びにあふれていたという。24時間野球漬けになれるという環境を最大限に活かしていた。
「入ってからずっと自分で考えて組み立てたトレーニングをひたすらやっていました。今はトレーニングコーチやパーソナルトレーナーが付いているのは当たり前ですけども、当時はなかったのでオーバーワークになったこともありましたし、次の日に影響が出ないように体で感じながら量をこなしていました」
周囲よりも練習量が多かったと自負している。要因も明確だった。
「高校の時に自分で取り組む習慣が付いていたので、練習に対して苦になることはなかったです。『自分が上手くなるためには何が必要か』『自分はどうなりたいのか』を考えた時に、トレーニングやランニングの量を”人よりも多くやるぞ”って思いは強かったです」
高校時代からすでに自分で練習メニューを組み立てて取り組んでいた。その経験がプロで早くかつ長く活躍する礎となった。
「今の時代と比べて何が正しいかは分からないですが、僕はひたすら”量”を追い求めてやっていました。人よりやっていればダメだった時に諦めがつくので」