
「好きなことに一生懸命突き進んでほしい」青木宣親さんがトークショーで拡げた子どもたちの可能性
3月20日、SHIBUYA TSUTAYAで行われた、ニューバランスジャパンによるベースボールクリニック。
日米通算2730安打を放つなど世界で活躍し、昨季限りでユニフォームを脱いだ青木宣親さんが特別コーチを務めた。
クリニックに続きトークショーが開催され、青木さんから直接”夢を持つこと”・”好きなことに一生懸命やること”の大切さが語られた。
(写真 / 文:白石怜平)
21年間の現役生活は「幸せな野球人生だった」
野球教室を大盛況のうちに終え、続いて場所を「New Balance Sports Book Café」へ移してトークショーが行われた。
フロアは大谷翔平選手のシグネチャーロゴやグローブを模した大きなオブジェなどで彩られ、青木さんは「すごくかっこいいですね!」と思わず周りを見渡した。
インタビュアーは野球教室でも会場を盛り上げたMC MAMUSHIさんが引き続き務めた。

最初のトピックは現役生活について。
青木さんは、昨季限りで21年間の現役生活にピリオドを打った。NPBでは史上唯一となる2度のシーズン200安打を達成し、MLBでもワールドシリーズの舞台に立つなど長きにわたり活躍。
NPB通算打率.313・日米通算2730安打などの成績をマークし、球史に残る選手として名を刻んだ。
青木さんはこの21年間をこのように総括した。
「幸せな野球人生でしたね。いいことばかりではなかったですけれども、少しずつ乗り越えてきましたし、毎日成長していくのが自分でも感じられた日々でした。結果的に良い終わり方をしたなと感じています」

少年時代、背中を追いかけた大投手
続いて野球人・青木宣親のルーツを紐解いていく。宮崎県日向市出身の青木さんはお兄さんが野球をしていたこともあり、物心ついた時から白球に触れていたという。
「キャッチボールするのがすごく楽しかったですね。すぐそばに駐車場があって壁当てをしていた記憶があります。いつもそこで投げて、その先にあるトタン板に穴開けちゃって怒られてましたね(笑)」
そんな青木少年はプロ野球もよく見ていたそうで、当時活躍していた選手のマネをしてたと語る。
「自分が見ていたのはイチローさんとか松井秀喜さんです。お2人が出てきた頃で振り子打法のマネとかやっていましたよ。ピッチャーだとお父さん・お母さんは分かるかもしれないですが、今ヤクルトでコーチされている伊藤智仁さんとかもやっていました」
日常に野球があったという少年時代。ある時期になるとさらに身近なものだったことを表すエピソードがあった。後に自身も同じ舞台に立つパイオニアとの縁を明かしてくれた。
「僕の地元の宮崎県日向市は近鉄バファローズのキャンプ地だったんですよ。2月になるとよく観に行ったりしたんですけども、衝撃的だったのは野茂(英雄)さんですね。
当時日向キャンプに来ていて、球場のすぐそばが浜辺なんです。そこを走っていたので、僕もその後ろをついて走っていました(笑)。とにかく野茂さんの体が大きいっていう印象が強くありました。本当に今でも鮮明に覚えてますね」

青木さんも上述の通り、MLBでも活躍した。野球の本場を肌で知る貴重な一人として、プレーしていた時のことも振り返った。
「日本人の自分からすると”異国でやる”という意識が強かった。僕から見て全員外国人の方と一緒にプレーするので、海外でやることで『自分は日本人なんだ』という意識が強まった気がします。
僕はアメリカに行った時に、”何でも受け入れるよう”にしましたね。ゼロからのスタートでまっさらな気持ちで行きました。自分も日本のプロ野球でキャリアを積んだかもしれないけども、向こうでは新たにチャレンジする気持ち。
当然これまでやってきたことも続けるのですが、そこからアップデートして新たな自分を作っていく。そんな考えで挑戦していました」

異国の地で感じたギャップはグラウンドだけではなかった。生活面でも感じたことも含めて、アメリカで過ごした6年間は今後の人生にもつながる大切な期間だった。
「プレーだけではなく、生活でも様々なことを感じながら毎日を過ごしていました。自分の人生を考えたときにすごく大きな経験でしたね。
自分一人では生きていけないので、みんなで助け合うことだってありましたし、アメリカに行って家族のありがたみや助け合うことの重要さを再認識しました。
日本にいると不自由ってあまりないじゃないですか?簡単に必要なものを手に入れられますし、言葉も通じますので。異国の地だと、言葉もなかなか通じない中で馴染めないとかどうしても出てきますから」

”志次第”で道はどこへでも開ける
少年時代からの夢であるプロ野球選手となり、大学時代に芽生えたというMLBの舞台に立つ夢も叶えた青木さん。
その”夢”はいつからより具体的に描くようになったのか。ここからは夢への道のりがテーマになる。
「僕は夢としてプロ野球選手になりたいと思っていましたが、最初は”純粋に野球が好きだからやっている”感じだったんですよ。現実として本当に目指そうと思ったのは、高3の夏が終わった時です。
最後の夏で負けた時に、『自分は好きな野球に対して一生懸命やってこなかった』そんな自分にすごく後悔したんです。なのでそこからです。『4年後必ずプロに行く』と心に誓って大学時代を過ごしました」

MC MAMUSHIさんから「今日集まってくれた子どもたちに『どうやったらプロ野球選手になれますか』と聞かれたら何と答えますか?」と問われると、「なれると思います」と即答。その意図をこのように続けた。
「”なれる”って思わないと、きっと行動も起こせないのではないかなと。途中で違うことに興味が湧いたり、野球じゃない道も出てくるかもしれないです。でも、なりたいことやしたいことを”一生懸命やること”が一番大切だと思います。
なりたいと思うなら行動しないといけないですし、目指す価値はあります。他に好きなことができたらそこに進めばいいし、どんどん突き進んでほしいなと思います」

ここで、自身の経験を子どもたちに共有した。
意外にも青木さんは、「間違いなく小さい頃や大学生の頃の自分の知ってる人は、まさかここまで来ると誰も思っていない。それぐらいの才能でした」だったという。
それは、決して生まれ持った才能だけで全てが決まるわけではないということを意味した。
「”志次第”でどうにでもなるなというのがありました。(プロで活躍をし始めて)世の中に自分が出た時は、その時の自分しか見てないと思うのでなかなか想像つかないかもしれないですが、その前まで(周りにいた)人たちは『本当にプロ行くの?』などと口を揃えて言っていました。
それぐらいの才能でしたし、突出したものではなかった。
だからこそ『志』。自分がどう取り組んでいけばいいかを考えて、さっき野球教室でも話した継続を重ねていけば、必ず道は開けてきます」

子どもたちからの質問にも答えるなど、約40分のトークショーは瞬く間に終えた。ラストメッセージとして最後にあるリクエストを出した。
「今日ここに連れてきてもらったよね。お母さん・お父さんがいなかったらできないからね。いつも送り迎えとか色々してもらっていると思うけれどもそれは当たり前ではないからね。
ここにいるのも特別なことだから、ちゃんと『ありがとう』って言ってあげてね。恥ずかしいだろうけどね(笑)」
青木さん、そしてニューバランス社はこの日子どもたちに向けて、スポーツを通じた”夢”を持つ大切さを確かに伝えた。
今後も未来を担う子どもたちへ、様々なメッセージを発信していく。
(おわり)
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