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プロ野球OBクラブ「 ~MEMORY COLLECTION~」2年ぶりに復活!2人の”ミスター・ロッテ”より披露された今昔物語

8/25(日)、東京都内で「日本プロ野球OBクラブ ~MEMORY COLLECTION~」が開催された。ロッテ一筋で苦楽を共にしてきた2人だからこそ語れる昔と今を語った。

ロッテ一筋の2人による豪華トークショー

本イベントは22年に好評を博した対面イベントで、2年ぶりに進化して帰ってきた。トークショーに加えてサイン・写真撮影ができる企画が用意され、まさに思い出に残る催しとなっている。

今回登場したのは西村徳文さんと初芝清さん。2人は川崎球場を本拠地としていたオリオンズ時代から05年の日本一までを共にした間柄。今だから語れる当時のエピソードが目白押しとなった。

ロッテの歴史を知り尽くす2人による必見のトークショーが行われた

まずはそれぞれがプロ入りした当時を振り返った。西村さんは鹿児島鉄道管理局(現:JR九州鹿児島支社)から81年ドラフト5位でロッテから指名を受け入団した。

入団当時は有藤通世選手やリー兄弟、そして落合博満選手がレギュラーを務めるなど強打者揃いだった。

また本拠地も川崎球場と、老朽化と閑古鳥の鳴き具合は現在でもプロ野球OBの昔話にネタとして登場している球場だった。ただ、西村さんは当時の印象は違った形で抱いていた。

「川崎球場が汚くて古いなんて言われていましたが、僕は最初はそんなこと思わなかったんですよ。”すごい大きいな”という印象を持ちました。これまで大きな球場でプレーしたことはなかったものでしたから。あと、先輩は怖い人が多かったですね(笑)」

ロッテ入団時の球場や先輩方の印象を語った

初芝さんは、東芝府中から88年ドラフト4位で入団。当時のロッテの印象を語った。

「当時はパ・リーグの試合は放送がなくて、ほとんど知らなかったんです。西村さんはもちろん知っていますが、あと村田兆治さんと愛甲(猛)さんくらいしか分からなかった。ですが入ったら他にも個性の強い先輩は多かったです(笑)」

その中でも参考にしたのは西村さんだったという初芝さん。「西村さんを見ていれば大丈夫だと、察知能力が発動されました」と早くも会場の笑いを誘った。

西村さんも横で後輩の話を聞いて「僕は理不尽なことが嫌でしたので、野球をやってる姿を見せたかったんです。姿勢で見せたいと思っていましたね」と語り、初芝さんの入団時から今につながる関係が構築されて行った。

入団時から西村さんの背中を追いかけた

両者が語る指導者とのエピソード

続いては関わってきた恩師の話題に。西村さんが一番に挙げたのが、入団時に打撃コーチだった高畠導宏さんだった。

高畠さんは、コーチとしてロッテを始め5球団を渡り歩いた名伯楽。落合博満さんや西村さん、さらには小久保裕紀・現ソフトバンク監督など多くの強打者を育てた名コーチである。

西村さんは「今の自分があるのも高畠さんのおかげ」と語り、プロで活躍する礎を築いてくれた方だった。

「僕はプロ入って一年目(82年)の秋季練習でスイッチヒッターに挑戦したのですが、一日1000スイング以上振る猛練習なんですよ。猛練習に耐えられたのも高畠さんの指導でした」

西村さんが最も力になった源は高畠さんの”言葉”だったという。

「その当時から褒めて伸ばすことをしてくれた方でした。『まだ1週間なのにすごいな!上達早いぞ!』などと声をかけてくれるんですね。そうなると『よし!もっと頑張ろう』という気持ちになれました」

元々右打者だった西村さんは、翌83年に左打席でプロ初安打を記録。以降レギュラーを獲得し、90年には打率.338で首位打者に輝くなどチームの看板選手へと駆け上がって行った。

高畠さんとの猛練習が後のミスター・ロッテをつくりあげた

一方、初芝さんは印象深い監督の一人として「有藤監督です。プロで長く続けるには何が必要かを教えていただきました」と答えた。

2人にとって”ミスター・ロッテ”の大先輩に当たる有藤さんは、初芝さんがプロ入り時の指揮官だった。エピソードとして、ルーキーイヤーのある出来事について明かしてくれた。

「僕がプロ初スタメンの日、鴨池球場での試合でした。当時キャンプ地だったのですが、公式戦も行っていたんですね。その時に告げられたのが始まりでした」

自身を抜擢してくれた有藤監督。ただ、その指導は厳しさそのものだったという。

「監督からはインコースに詰まると”行け”って言われるんですよ。川崎球場の横に室内練習場があるのですが、試合中にも関わらずマシンをインコースにセットして『呼びに来るまで打っとけ』と。来たら守備に就いて終わったらまた室内行って、呼ばれたらまた球場に戻ってを繰り返していました。

その時に言われたのが『プロで長くやるのであればインコースを打てないとできないぞ』と。これをずっと自分の中で持っていたので17年間やれたのだと思います」

プロで長くプレーできたのには有藤監督の教えがあった

05年、優勝を決めた逆転劇の裏側

2人そしてロッテファンにとって忘れ得ないのが05年の日本一。この年は初芝さんにとって現役最終年で、一緒にユニフォームを着た最後の年でもあった。

当時のパ・リーグはプレーオフで優勝を決める方式。ロッテはこの年レギュラーシーズンを2位で終えると第一ステージで3位の西武を破り、1位で終えたソフトバンクとの第二ステージを戦った。

2勝2敗のタイとなった最終第5戦、7回を終えて1−2とロッテが1点を追う展開だった。逆転劇が起きた8回表、先頭打者として突破口を開いたのが代打で登場した初芝さんだった。

逆転での優勝が決まったプレーオフでの試合を語った

すでに引退試合を終えた中で再び巡ってきた出場機会、打席では三瀬幸司投手のスライダーを振ると打球は三遊間に。すると守備が交錯して内野安打となった。

一塁ランナーに残った初芝さん。実は内野手を使い切り、他に控えはいなかった。次打者・福浦和也選手が右前安打で続いた時についても語った。

「福浦の打球はライナー性で二塁がジャンプしている打球なので、ゲッツーになったら終わりなわけです。この試合、実は2回そのケースがあったんです。僕はそれを見ていたので頭の中で整理していて、同じ打球が飛んだ時に自分は止まっている。

でも、ライトからの送球はギリギリだったんですね。福浦は指差して怒ってました(笑)。でも冷静でしたし、あれは正解でした」

経験や試合展開から冷静な判断ができた

一死一・二塁となったところで5番の里崎智也選手が走者一層の二塁打を放ち逆転。チームは31年ぶりのリーグ優勝を果たした。

その時、三塁ベースコーチを務めていたのが西村さんだった。この時の心境そして取ったアクションを明かした。

「あの時は1アウトでした。里崎がフェンス直撃の当たりを打った時に回すのか止めるのか迷いました。でも選手も出し尽くした状況だったので、ここで止めたら点が入らないんじゃないかと思ったんですよ。

なので、一塁ランナーの福浦を回したんです。外野から返ってくるのに時間がかかったのと、中継からの送球が少し高かったのでこちらにとって良かったんです。

一か八かでしたので、セーフになった時にホッとしましたよ。短い時間だったのですが、勇気を持った決断をしなければいけない。それくらい難しいプレーでしたね」

逆転劇の裏には瞬時の判断があった

初芝さんは裏の回、三塁の守備にそのまま入ったためグラウンドで歓喜の瞬間を迎えることができた。

「あれくらいの緊張感、まさか引退を表明した中であのような機会を頂いたので、三塁の守備に就いていた時は感慨深かったです」

現在の活動と今後への想い

その後は今のマリーンズへの期待を述べ、参加者からの質問コーナーに。過去のエピソードや技術についてなどさまざま寄せられた。そしてプログラムの最後にはサイン会に。

オリオンズやマリーンズ初代の懐かしいユニフォームや30年以上前のファンブックなど、思い入れのあるグッズを持参し、思わず2人も驚く様子が何度も見られた。

トークショーの最後では、参加した方々へ今後への想いを語っていた。

「SNSも始めましたし、宮崎や鹿児島を中心に子どもたちへ指導も行っています。これからの世代に野球というのを伝えていきたいです。

プロを目指すにはどんなことが必要かなど心構えも伝えていけたらと思います。私もまだまだ若いと思っていますので、どこかでユニフォームを着るチャンスがあれば挑戦したいです」(西村さん)

現役時代のプレー写真に記した

「私は社会人野球のオールフロンティアという企業で監督をやっていて、9月9日から日本選手権の予選が始まります。もしお時間あれば応援に来ていただければと思います。

私は現役を引退してからまだプロでユニフォームを着たことがないので、プロ野球という世界でもう一度やってみたいという気持ちは常に持っています。その時が来たらより一層応援をお願いします」(初芝さん)

背番号「0」の懐かしいユニフォームも

大盛況で終了した本イベント。最後はマリーンズのユニフォーム姿を再び見られることを期待し、拍手で2人を送り出した。

(おわり)

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