初芝清氏 ロッテ一筋「お客さんの数を数えられた」川崎時代から「満員のスタンドから紙テープが舞う」千葉での17年間
かつてロッテでプレーし、”幕張のファンタジスタ”と称されるなど多くのファンに愛された初芝清氏。
川崎から千葉へ移転する過渡期や95年の2位躍進、そして18連敗など主力打者として歴史を築いてきた。
以前日本プロ野球OBクラブ主催の「Autograph Collection」終了後のインタビューで、現役生活について語っていただいた。
今回はその模様を紹介する。
(協力:日本プロ野球OBクラブ、写真 / 文:白石怜平、以降敬称略)
プロ入り時に感じた”真っ直ぐの速さ”
初芝は二松学舎大付から東芝府中を経て、88年ドラフト4位でロッテオリオンズに入団した。社会人野球からプロの世界に入り、まず驚いたことがあった。
「プロの投手の真っ直ぐの速さ。これにまずびっくりしました。社会人時代で特に4番を打っていた選手というのは変化球で攻められるので、真っ直ぐで来るというのがあまりなかったんです。
社会人時代は相手投手の変化球も良い球だったのでプロでもある程度対応できたのですが、真っ直ぐの対応が難しかったですね」
当時、社会人野球出身の選手がプロに入り壁にぶつかるのが金属バットから木製バットへの適応だったが、初芝は「僕は大丈夫だったんです。木のバットを使ったときに違和感はなかったです」と語った。
そのため、一番の課題は速球への対応だった。
「キャンプ中とかに投手陣が打撃投手に入るじゃないですか。全然前に飛ばないんですよ。ただ、シーズンが近づくにつれて体感的に慣れてきたのがあるので、もう体験していくしかなかったですね」
1年目の8月から三塁のレギュラーに定着し、翌90年には18本塁打をマークするなどロッテの主力打者へと成長した。
川崎球場での印象的なシーンとは?
現役時代、「幕張のファンタジスタ」という愛称でファンに愛された初芝。ちなみに、プロ入り最初の3年間は川崎球場でプレーしている。
川崎球場時代は、観客が流しそうめんをやって楽しむシーンが映し出されるなど閑古鳥が鳴いていた時代。
「シートノックの前にベンチに入ったとき、お客さんの数を数えられたんです。”今日は何人だ”って(笑)」とプレーしていた本人も語るほどだった。
そんな川崎球場時代の印象的な思い出として、TV番組「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」でも放送されていたあの出来事を挙げた。
「川崎球場に毎試合のように応援に来てくれた親子がいて、女の子なんですけどその子たちは今どうなってるのかなってすごい気になります。
ベンチとスタンドの距離も近いのでよく見えるんで。ある試合でロッテの3者連続ホームランがあって、堀(幸一)と山下(徳人)さんと高沢(秀昭)さん。
当時ホームランを打つと人形をもらえて観客席に投げるんです。それで3連発打って人形を受け取ったのが全部その子だったんです。
最後は高沢さんだったんですけども、投げる手が引っかかったのがその子に行っちゃったって(笑)。山下さんが打った時は、投げる前にファンスの目の前にいたから渡したそうで、3つとも取ったのが印象的でした(笑)」
マリーンズで味わった天国と地獄
初芝のキャリアハイと言えるシーズンは95年。打率.301・25本塁打・80打点。打点はイチロー(オリックス)と田中幸雄(日本ハム)と3人でタイトルを分け合った。
この試合、最終戦前までは79打点だった。最終打席で本塁打を放ち上乗せし、これが大きな1打点になるものだった。当時のことは鮮明に覚えていた。
「最後西武戦で豊田(清)投手からホームラン打ったんですよ。投げてくるボールと自分が打つイメージ、さらに飛んでいく打球のイメージができたんですあの打席は。球種もコースも”絶対そこに来る!”と思って打てたホームランでした」
また、チームは第一次ボビー・バレンタイン監督時代で2位に躍進した年でもあった。自身にとっても初めてのAクラス入りということで、「勝ってる試合が多かったということなので、楽しかったですね」と充実したシーズンを振り返った。
ただ、一方で敗戦も多く経験してきた。特にクローズアップされるのが98年、今も日本記録となっている”18連敗”。
初芝は主力としてあの連敗を経験している。ここでも当時の心境を明かしてくれた。
「18連敗しましたけどもチームの中で下を向くことはなかったんですよ。何せその年はチーム打率がリーグ1位、防御率2位ですから。だから”何で?”って感じです」
今でも語り草になっている7月7日のオリックス戦(神戸)、”七夕の悲劇”の時も自身はグラウンドにいた。
「3-1で勝ってましたからね、プリアムに打たれるまでは。(打たれた時は)頭真っ白になりましたよ。打った瞬間でしたからね。
あれ?ってなって『まだ試合続くんだ』って思いましたし、延長に入っても気力がないんですよ。それでサヨナラ負けしましたから」
五輪アジア予選の代表として日の丸を背負う
99年には新たな勲章が加わった。それはシドニー五輪アジア最終予選の日本代表入りだった。
95年にロッテでGMを務め、代表チームのコーチを務めていた広岡達朗に「お前を最初に選んだ」と言われたという。
初めてプロが参加する記念すべきメンバーに選ばれたが、当然ながらプレッシャーを感じていた。
「オリンピックに出られなかったらどうなってしまうのかが一番でした。プロが8人も参加するわけですから。代表権取れないと日本へ帰れないんじゃないか、そういう雰囲気を感じました」
その一方で、時期が9月というシーズンが佳境に入る時期。初芝は当時再びあるチャレンジをしている真っ只中だった。そんなこともあり、片隅に気にしていたことがあった。
「その時も僕打点王を争ってたんですよ、タフィ・ローズ(近鉄)と。予選で韓国に行った時点では、僕が1位か2位だったんですよ。向こうで新聞見れたので、常にローズの打点を見てました。挙げないでくれと(笑)。
そんな長い期間ではなかったですけども。自分たちが予選やってるときにペナントレースはやってますから」
引退の決め手となった股関節の痛み
2000年まで3年連続20本塁打以上をマークするなど、長らく主軸を務めた。03年頃からは代打を中心に活躍し、同年には代打で7打数連続安打を達成するなどチームを支え、05年に現役を引退した。
この時、初芝の体は悲鳴を上げていた。
「股関節に痛みがあったのが大きかったです辞める3年前くらいですかね。普通は股関節に水は溜まらないはずなのですが、僕は水が溜まってしまっていたので抜いてさらに痛み止めを入れていました。
それを毎月行っていて、しっかり入った時はある程度状態はいいんですけども、じゃないと痛くてシーズン中でも寝返り打って起きてしまうくらい。
振りに行っても下半身が使えないので振り遅れてしまうんですよ。それでそろそろ厳しいなと思いました」
引退試合はホーム最終戦のソフトバンクとの試合。代打で登場した初芝は相手投手の三瀬幸司から死球を受けてしまい、場内が笑いに包まれた。
まさにファンに愛された初芝はスタジアムを満員にし、その後のプレーオフでも安打を放つなど最後まで全力プレーを見せた。
「引退セレモニーで球場を一周するときに、ライトスタンドの前に着くと紙テープが滝のように舞ってあれは感動的でしたね。嬉しかったです」
この年は第二次バレンタイン政権のもとで、チームは第一次政権時以来のAクラスそして31年ぶりの日本一を達成し初芝の有終の美を飾った。
その後は社会人野球・セガサミーでの監督などを経て、現在は再び社会人野球「オールフロンティア」の監督を務める傍ら、野球解説者としても活躍している。
”幕張のファンタジスタ”はアマチュア野球の舞台で野球道を邁進している。
(おわり)