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元ロッテ・西村徳文氏 「チームが一つになれた」就任一年目”史上最大の下剋上” をつくりあげた”和”の力

現役・指導者を通じロッテでは31年もの間在籍し、その後オリックスでも指揮を執った西村徳文氏。

首位打者や盗塁王のタイトルを獲得するなど活躍し、97年に現役を引退。翌年からコーチを務め、09年オフには監督の座へと就き、就任一年目で日本シリーズ制覇も達成した。

日本プロ野球OBクラブ主催の「Autograph Collection」終了後のインタビューで、現役生活につづき監督時代も振り返った。

>現役時代編はこちら

(協力:日本プロ野球OBクラブ、写真 / 文:白石怜平、以降敬称略)

スローガンに込めた意図

09年オフ、ボビー・バレンタイン監督の後任としてロッテの指揮官となった。当時すでにチーム一筋28年、就任会見でも「球団への愛情は誰にも負けない」と説得力に満ちた言葉で、新旧のファンを早くも惹きつけた。

監督就任にあたり、当時の心境を明かしてくれた。

「自分が監督をやるとは思っていませんでしたよ。やりたいなとは思っていましたよ。ありましたけども実際に思っていなかったので、言われた時はびっくりするだけでした。

その後自分で考えて、長くお世話になっている球団ですし恩返しをしないといけないなと。その想いが強くなってきました。特に時期が時期でしたし、いろいろとありましたから」

スローガンを「和」とした考えを話した(24年4月撮影)

西村が述べる”いろいろあった”こと。それは前年にバレンタイン監督の09年限りで退任という決定から端を発したことによる対立。

球場内外での様々なことが報道され、当時ヘッド兼外野守備走塁コーチだった西村も心を痛めていた。この時のことを踏まえ、10年のスローガンに込めた想いがあった。

「それだとチームは勝てないと思ったんですね。ロッテはやっぱりファン、あのライトスタンドの応援の力というのは絶大ですし、一緒になってやっていかないといけない。

あとは現場とフロントも一つにならないといけない。全てが一つにならないと勝てないということで、スローガンに”和”と入れました」

自ら挙げた運命の一戦とは

10年は開幕ダッシュに成功し、4・5月は首位を走った。その象徴として今も現役としてプレーするあの選手の名を挙げた。

「監督としての手応えも十分に感じていました。特に荻野(貴司)の存在が大きかったです。ルーキーだった彼がチームを活気づけてくれたおかげでスタートダッシュが上手くいきました。加えて西岡(剛)のキャプテンシーもありました」

チームはクライマックスシリーズ(CS)争いに最後まで加わり、最後は1敗もできない中で3連勝を飾り、最終戦で3位を確定させた。その底力はCSでも発揮された。西村が「全ての始まりでした」と語った試合があった。

「CS最初の試合だった西武戦。9回迎えて4点差で負けてたわけですよ。そこから逆転勝利してからです(※)。勝負事は最後まで諦めてはいけないですし、実際に逆転しましたから。あの試合からですよ」

(※)10/9のファーストステージ第1戦、9回表に満塁から里崎智也の適時打などで4点差を追いつき、延長11回表に福浦和也の本塁打で6−5で勝利した

CSの初戦が下剋上への最初の1ページとなった

翌2戦目も延長戦となる熱戦を制したロッテはファイナルステージへ進出。福岡でのソフトバンク戦に臨んだ。

初戦に勝利したロッテは1勝1敗(ソフトバンクに1勝のアドバンテージ)のタイに持ち込むも、2戦目から連敗を喫し王手をかけられた。

「もしかしたら相手は”もう勝った”と思ったかもしれません。だけど、我々はこれ以上絶対負けられないという気持ちを持ってましたよ」

シーズン終盤からCSファーストステージの2度、文字通り崖っぷちから這い上がってきたロッテナイン。

「選手たちのハートも試合を重ねるにつれて強くなっていったのだと思います」

と指揮官が語った通り、3度目となる窮地の状況はむしろロッテ側に力を与えたかのように次の試合から展開が変わった。

当時を冷静に振り返った

第4戦からロッテが連勝して逆王手をかける。そして迎えた第6戦、エース・成瀬善久が圧巻のピッチングを見せるなどで7−0と勝利し、3位からの日本シリーズ出場を決めた。最後に遊撃ライナーを捕球した西岡はその場で崩れるように涙した。

「西岡は最初からチームを引っ張り続けてくれたので、その気持ちが特に強かったんだと思います。監督としても(CSを勝ち抜いて)ほっとしました。シーズン終盤の3試合からCSとタフなゲームが続きましたから(笑)」

3度の延長戦も経て、”史上最大の下剋上”が完成

05年以来の出場となった日本シリーズもさらにタフな試合が続いた。相手はかつてのチームメート、落合博満が率いる中日だった。

「相手は意識しませんでした。何せ落合さんですから。選手としても監督としても実績のある方ですし。僕は落合さんを見ないようにしてました」

所沢・福岡・名古屋とロッテは全てビジターでの試合。ようやく帰ってきたホームで最後の3試合を2勝1敗で終えると、再び敵地へと乗り込んだ。

「クライマックスのファーストステージ・ファイナルステージ・日本シリーズとずっと敵地でした。途中で千葉に帰りましたけども、もう最後は帰れない状況でした。でもプレッシャーがかかる状況でも逆に皆が一つになれたと感じていました」

和の力が日本一を呼び込んだ

王手をかけて臨んだ第6戦はシリーズ最長時間の5時間43分の激闘、さらに史上初の延長15回引き分け。そんな中で迎えた第7戦もこのシリーズ3試合目の延長戦となったが、12回表に岡田幸文が浅尾拓也から決勝の三塁打を放ち8−7で勝利。

就任一年目で3位からの日本一を果たし、名古屋で宙に舞った。その時の心境を問うと、ロッテ一筋だからこそ沸き上がる感情を隠さなかった。

「最高の日本一でしたよね。ただ、実際に味わうと選手の時に優勝したかったなっていうのが強かったですね。また違うじゃないですか。もちろん優勝監督も最高の栄誉ですが、欲を言えば選手の時に味わえたら違っただろうなと思いました(笑)」

手腕を買われ、オリックス監督に就任

ロッテでは3年間監督を務め退任。選手からコーチ・監督と31年間在籍し続けた。

その後は野球解説者・評論家活動を経て15年オフ、同じ宮崎県出身の福良淳一からオファーを受けてオリックスのヘッドコーチに就任。19年からはオリックスで再び監督を務めることになった。

「まさかやると思わなかったです。ロッテでは選手からずっとやってきたのがありましたけども、オリックスでは全くやってなくゼロからのスタートでしたから、心境も違いました。ただ、オリックスの選手を一人一人見るととても力のある選手が多い印象を持っていました」

苦労したオリックス監督時代についても語った

ただ、当時はまだ下位に低迷していた時代。監督も1年や2年で交代を続けるなど長い暗黒期の中にいた。自身が最も大切にしていたものが失われていると感じていた。

「最初見たときにチームが一つになっていない印象を持っていました。自分が監督になった時も一つになることを目指しやってきましたけども、力及ばずできなかったですね…」

20年途中に志半ばでユニフォームを脱ぐことになってしまうが、翌年からの3連覇に向けて確かな芽を育んでいた。今年からメジャーに挑戦しているあの選手についても語った。

「山本(由伸)は僕がヘッドコーチの時は8回を投げていたのですが、もったいないなと。本人も先発をしたい気持ちも強かったんです。なので先発で投げてもらいました。あとは山岡(泰輔)も小さい体で素晴らしいボールを投げてましたから。

野手も吉田(正尚)を始め素晴らしい選手がたくさんいたんですけども、機能させることができなかったのは心残りです。僕は負けたら責任は全て監督にあると考えているので」

「挑戦する気持ちだけは持ち続けないといけない」

現在は野球評論家として活動しながら子どもたちに野球を教えている。

「今後はもう一度どんな形でもいいのでユニフォームを着たいなと。でもそれはタイミングだと思うんです。64歳という年齢を考えると厳しいかもわからないですけども、挑戦する気持ちだけは持ち続けないといけない。

今は子どもたちに野球を教える機会もありますから、次の世代と親御さんたちに野球の魅力を伝えながらまだまだ自分も成長できればと思っています」

これからも挑戦は続けていく

野球人としての炎は決して消えてはいない。自らも挑戦する想いを持って今も野球と向き合っている。

(おわり)

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