• HOME
  • 記事一覧
  • 野球
  • 辻発彦さん「野球から学ぶ 人生への挑戦」多くの名将の下で学び続けた勝利の帝王学と監督として伝え続けたこととは? 

辻発彦さん「野球から学ぶ 人生への挑戦」多くの名将の下で学び続けた勝利の帝王学と監督として伝え続けたこととは? 

一昨年まで西武監督を務めた辻発彦さんが6月30日、東京国際フォーラムで行われた「第59回日本理学療法学術研修大会内の公社)東京都理学療法士協会が担当する公開講座」の講演会に登壇。

野球との出会いから社会人そしてプロでの活躍を終えた後は、指導者としてもチームを優勝へと導いていく。ここでは、コーチ時代に支えた多くの名将そして監督時代について特集する。

>前編はこちら

(写真 / 文:白石怜平)

名将たちのもとで指導者経験を積む

99年にヤクルトで引退後は即二軍守備・走塁コーチに就任。後に長く務めることになる指導者デビューとなった。

2年務めた後に02年から横浜(現:DeNA)ベイスターズの一軍守備・走塁コーチを3年間担当。西武時代の指揮官だった森祗晶さんからオファーを受け、今度はコーチとして同じユニフォームを着た。

06年には第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で日本代表の内野守備・走塁コーチとして王貞治監督のもとで初代世界一に輝く。

この年のオフには、中日の落合博満監督からの誘いを受け二軍監督に就任。指導者としてのキャリアを着実に積んでいった。ここで落合さんとの関わりについて紹介した。

「落合さんとは社会人時代に一緒にやっているんです。都市対抗の補強選手として東芝府中から日本通運に来たのですが当時僕は18歳。誰よりも早く落合さんとプレーしているんです(笑)」

落合さんとは社会人時代、既に一緒にやっていた

中日で初めての挑戦となった監督業。二軍監督としての仕事についてこのように語った。

「二軍では選手を育てないといけないですし、一軍の試合を見て今どんな選手を必要としているか。右の代打なのか守備固めなのかリリーフ投手なのか。常に二軍の試合が終わったら一軍でのナイターをチェックしていました。落合監督から電話がかかってくるかもしれないので1日中野球をやっていましたね」

また育成する選手に向けては、一軍で活躍するための心構えを伝えていた。

「試合をするわけですから、”どうやったら勝てるか”を体験してもらうことを重要視していました。点を取るためには・防ぐためにはどうしたらいいか。勝つために常に厳しい経験をしておかないと、一軍で4万人入るスタジアムで力を発揮できないわけですよ。それは選手に常に言っていました」

二軍監督時代を語った

プロで優勝を幾度となく経験し、”勝つ野球”を熟知している辻さんからの教えを受けた中日の選手はファームでも力を発揮し、二軍監督での3年間で2度のウエスタン・リーグ優勝を飾った。

落合監督が築き上げた中日の黄金期では、辻さんがファームで下地をしっかり耕していた。

「戻れないと思っていた」ライオンズの監督就任オファー

その後中日では落合監督が退任する11年までと、谷繁元信監督時代の3年間(14年〜16年)一・二軍のコーチを歴任した。

そして、16年シーズンの終了後に西武から監督就任要請の連絡が届いた。

「当時の球団本部長だった鈴木葉留彦さん、現役時代に一緒にやった先輩です。僕は西武を出た身ですから戻れないだろうなと思っていたのですが、『この時期の連絡は分かっているな?』と来たので『コーチですか?』と聞くと『いや、監督で』と言われてビクンとしましたよ」

監督就任秘話を披露した

すぐさま当時中日のゼネラルマネージャー(GM)だった落合さんに相談した。

「落合さんから『コーチか?』と聞かれたので『監督です』と答えたら『そうかそうか、それなら西武に行きな』と背中を押してくれました。

『コーチだったら行かせることはしないけど、監督はこの世界でできる人は少ないんだから頑張れ。俺も応援するから』と言ってくれて西武に戻ることになりました」

監督時代、選手に伝えた一つのこと

辻さんは西武時代には広岡達朗さん・森祗晶さん、ヤクルト時代には野村克也さん、WBCでは王さん、中日では落合さんと行く先々で球史に残る名将の下で帝王学を習得してきた。

「皆さんのいいなと思うこと全てを吸収しようとしたら頭が混乱してしまうので(笑)自分は”こうだ”と思うことをやろうと考えました」

就任当時は3年連続Bクラスと低迷していた時期。誰よりも勝利を知る男が再建を託された。就任時の心境もここで語った。

「どうにかライオンズをもっとファンに愛されるチームにすることを考えました。みんなヒーローインタビューで言うじゃないですか『ファンの皆様の応援が』ってあれは間違い無いんです。選手交代でグラウンドに出ると声援が聞こえてきてすごく感動を得ましたよ」

ファンの声援が確かに力となっていた

もっとライオンズが愛され、魅力あるチームになるために辻さんは選手にあるお願いをしていた。

「選手の前では『何点差があろうが諦めず戦ってくれ』とずっと伝えていました。僕が寂しい光景は、8回終わって点差が離れて負けていました。裏の攻撃が終わると続々帰路につくわけですよ。あれが悲しくて」

辻監督は一年目からチームを変革した。その17年に一気に2位へと押し上げると、18年は開幕から一度も首位の座を明け渡さず10年ぶりのリーグ優勝。

19年には首位と最大8.5ゲーム差を逆転し連覇を達成し、王者ライオンズの名を再び奪い返した。

「これからのチームで、特に打撃陣には素晴らしい選手がたくさんいました。投手陣に不安はありましたが4番を山川に固定して、森をキャッチャーとして一人前にしたい。源田がショートで来てくれて外崎も絶対使いたい。そこにベテランの栗山と中村が支えるとバランスのいいチームになるなと考えていました」

監督時代、山賊打線でリーグ連覇へ導いた

22年まで指揮官を務め、6年間で5度のAクラスという結果を残し、強いライオンズを再びつくりあげた。しかし、現在は下位に位置していることに触れ、率直な心境を明かした。

「OBとしてテレビで毎試合見ているんですよ。一緒にやっている選手もいますから。監督として見ている以上にストレスになります。気になって仕方ないですよ(苦笑)」

「野球から学ぶ 人生への挑戦」をテーマに振り返ってきた辻さんの野球人生。改めて野球への想いを述べた。

「今の自分があるのは野球があるからこそです。たくさんの素晴らしい指導者の方に出会うことができました。なので、今も野球をメインにして仕事ができています。野球に感謝です。今後野球が発展していくためにこれからも考えていきたいと思っています」

野球への感謝はずっと持ち続けている

約1時間半にわたる講演会は大盛況で幕を閉じた。その後質問コーナーが設けられ、ライオンズのユニフォーム着たファンからも寄せられるなど交流も楽しむ時間となった。

(おわり)

【関連記事】
西武ライオンズ 初のOB戦開催!試合前のトークショーで明かされた伝説のパフォーマンス誕生エピソード〜黄金期野手編〜

名前がコールされ悲鳴も…石井丈裕 早実時代の下積みと消えなかった勝負師の炎「まだまだ勝負してみたかった」

元西武・高木大成 「波乱万丈でした」10年間のプロ生活で味わった栄光と挫折

関連記事一覧