最後の”新日鉄釜石戦士”三浦健博 振り返るラグビー生活とシーウェイブスの魅力「純粋にラグビーをやっている。それは昔から変わらない」
震災を経て引退、HCでは初年度にTL入れ替え戦に
01年からは釜石シーウェイブスとして再スタートを切り、上位への昇格を目指した。そこから10年後、もう1つの大きな出来事が起こる。
それが「3.11」である。釜石市のある岩手県も甚大な被害を受け、街は津波で飲み込まれた。チームも約2ヶ月の間、市内各所に出向き支援活動を行った。
街のスーパーの光を見た時に『自分たちの本業はラグビーだよな』と思い立ち、5月に再開してからはラグビーができる感謝の気持ちを持ちながら、みな少年のように喜びを全身で表現した。
三浦もすでに35歳になるシーズン、兼任コーチとしてチーム全体を見る立場となっていた。
そして翌12年、選手としては18年の現役生活にピリオドを打ち”最後の新日鉄釜石戦士”がグラウンドに別れを告げた。そして14年からは冒頭の通りHCに就任。初年度はチームの歴史に残る大躍進だった。
トップイーストリーグで2位に入り、11年ぶりにトップリーグへの昇格を争うトップチャレンジ2に進出。ここでも2勝負けなしで1位通過となり、初めてトップチャレンジ1への出場を決めた。
ここでは1勝2敗で4位となるも、クボタスピアーズとトップリーグ入替戦で対戦。5-34で敗れ惜しくもトップリーグ昇格とはならなかった。
HC初年度については悔しさを思い出しながらもこう語った。
「最初の一年は入れ替え制まで行ったんですよね。トップリーグいきたかったです。でも非常に勉強になった1年でした。一緒に行った外国人のコーチのディーン・ラットンがいたんですけども、コーチングやラグビーに対しての考え方というのがすごく新鮮で。指導者としてすごく学習した1年でした」
『一緒に苦難を乗り越えるんだ』大漁旗とともに乗せた想い
シーウェイブスを語る上で欠かせないものがある。それは「大漁旗」による応援である。
釜石市は「鉄と魚とラグビーの街」と呼ばれ、ラグビーは街の重要な文化として伝統的に親しまれている。三浦も現役の間そしてHCとなっても、その応援はいつも自分の心に響いていたという。サポーターの話題になると満面の笑顔を見せた。
「名前も”シーウェイブス”じゃないですか。津波の波。プラス大漁旗という海をイメージしている。その大きな旗を持ってきてスタンドで降ってくれるというのは、津波が来ても『一緒に苦難を乗り越えるんだ』という想いを感じていますし、この応援は特別だと思って常に戦っていました」
2015年3月には一昨年行われたラグビーW杯の開催地にもなった。市役所のモニターで固唾を飲んで見守っていた釜石市民は発表の瞬間、歓喜に満ち溢れた。
三浦も当時開催都市が決まった時の嬉しさを思い出した。
「釜石できたというのはラグビーの歴史があったからではないでしょうか。(新日鉄釜石時代の)V7時代からクラブ化を経てここまでやってきましたが、先代の方達から積み重ねて来れたからだと思います」
2019年9月25日のフィジーvsウルグアイ戦。震災復興のシンボルとして整備された釜石鵜住居復興スタジアムに多くの大漁旗がスタンドを彩った。
TV実況ではキックオフの瞬間「ありがとう釜石」の声が響き、日本ラグビー界の歴史に新たな1ページが刻まれた瞬間だった。