【特集】戦場への帰還 ~不屈の精神と長き闘いの記憶~埼玉武蔵ヒートベアーズ 由規兼任コーチ 第1回 右肩の違和感からの苦闘の始まり
BCリーグ・埼玉武蔵ヒートベアーズから台湾の楽天モンキーズに移籍し、今月台湾へと渡った由規投手コーチ兼投手。
仙台育英高校では夏の甲子園に出場し、当時から155km/hの剛速球で注目を浴びた。その後ヤクルトにドラフト1位で入団し早くから頭角を表すと、10年には当時日本最速の161km/hをマークし、本格派投手の代名詞となった。
しかし、翌年から長い怪我との闘いを余儀なくされてしまうことになる。手術・リハビリには約5年を要しそして神宮のマウンドに帰ってきた。
今も現役として投げ続けている由規投手に埼玉武蔵ヒートベアーズ在籍時、ロングインタビューを実施。長い闘いの軌跡を訊いていた。NPB時代からBCリーグ在籍まで、全6回に分けてお送りする。
(取材協力:埼玉武蔵ヒートベアーズ、取材 / 文:白石怜平 ※肩書きは取材当時・以降敬称略)
2011年途中、右肩の違和感で戦線離脱
由規の長い闘いは2011年から始まった。東日本大震災により自身の地元である仙台も被災。並々ならぬ想いで臨んだシーズンだった。
オールスターでファン投票1位に選ばれ、仙台で行われた第3戦に先発した。シーズンでも7勝を挙げ、防御率も2.86と安定した投球を見せていた。
最初の異変が起きたのはチームが中日と優勝争いを繰り広げていた9月のことだった。右肩の張りによる影響で登録抹消。クライマックスシリーズのマウンドに立つことはできなかった。
「これまで肩に痛みなどを感じたことはなかったので初めてでしたね。最初の感じも投げ終わって、『肩上げづらいなぁ』と思ったのですが、その当時はこんなに時間かかるものだと思わなかったですね」
この時点では後に分かる腱板損傷といった診断結果は出ておらず、保存療法でオフを過ごした。翌12年のキャンプは1軍のメンバーとして参加していたが、肩の状態は一向に上がらない。さらに追い打ちをかけるように故障が続いてしまった。
「痛みは和らいでいたのですが、いざ投げてみると肩がズキズキするような痛みが出ましたし、1番致命傷だったのが左膝を痛めてしまって。それを我慢したまま投げたら、膝を庇ってしまったがために肩に負担が来てしまいました」
投げても痛みも再発し、回復も以前までのように追い付かない状態だった。現実と向き合い、この肩と付き合っていく覚悟を持って一進一退を繰り返したが、むしろ悪化の一途を辿ってしまう。
並行して全国の病院を回るも、正確な原因を突き止めることができない状況も続いた。局所的な治療を施すのが精一杯になり、精神的にも負担がかかっていった。
「肩肘の難しいところなのですが、病院で痛い箇所に注射を打ったりもしました。ただ、その時はいいのですが時間経って投げていくと痛みが再発する繰り返しでしたね。
キャッチボールは確認程度でするんですけども、ずっと状態が上がって来ないのもありますし、これ以上投げたら痛みが出るからやめようと自分でストップをかけてしまう。そういう状況でした」
この年はプロ入り始めて一軍登板なし。ファームでも1試合3イニングのみの登板に終わった。
次ページ:13年、ついに右肩手術を決断