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「割り切り方はチームの中でトップクラスだったと思います」久保康友 プレッシャーに負けない思考力「野球は確率論と考えています」 〜阪神・DeNA時代編〜

次ページ:14年、チームの改革の真っ只中のDeNAに移籍

久保は13年オフ、フリーエージェント(FA)宣言しDeNAへ移籍。

14年は長らく務めてきた先発へと復帰した。開幕から先発ローテーション入りし、白星を順調に重ねた。終盤まで最多勝のタイトル争いに参戦するなど投げ続け、4年ぶりの2桁勝利となる12勝6敗の成績をマークした。

翌15年は開幕投手を務め、2年連続チームトップとなる8勝を挙げるなど活躍を続けた。

しかし、16年は一・二軍を複数往復するなど15試合で5勝8敗と負け越してしまい、チームが球団初のクライマックスシリーズ(CS)に進出するもポストシーズンの登板機会がなかった。

17年は途中の3連勝を含む4勝を記録するも7試合の登板にとどまった。チームは3位からCSを勝ち抜き、98年の日本一以来19年ぶりに日本シリーズ出場を決めたが、自身は8月にファームへ行って以降は一軍へ昇格することはなくその輪に入ることは叶わなかった。

久保が入団した14年から17年の4年間は、チームが人気球団へと変貌する真っ只中であった。DeNA時代についてのインタビューでは、その変化のプロセスを中心に振り返った。

「親会社が変わると方針ってがらっと変わるんですよね。本当に面白いです。今は、スタジアムがいつも満員になっていますけれども当時はそうではなかったですから。

当時の球団社長を始め、『どうしたらお客さんが球場へ来るようになるか』を考えて、今までやってない試みを我々現場と一緒にたくさんやりましたよ」

ベイスターズ時代、選手も多くのイベントに協力したという

これまでは選手はグラウンドで結果を残しチームは勝利を目指すこと、営業などスタッフはそれぞれの役割を果たすことに分担されていた。

ただ、ベイスターズでは親会社がDeNAとなった12年シーズンから、現場とスタッフが共に参加し、従来の常識を打ち破る取り組みを続けてきた。それは現在も脈々と続いている。

「ベイスターズに移籍してからは、営業さんから選手に『〇〇のイベントをやりますので選手のみなさんも参加してください!』と。色々参加しましたよ(笑)。キャンプやシーズンに入ってから年間通してです。

それが何年も続いたら実ってチケットが取りにくい状況になりましたよね。すごいですよ。改革です。当時中畑監督も『お客さんのために頑張れ!』って常におっしゃっていたので」

17年オフ、戦力構想外であることを告げられ退団が決まった。まだ37歳、次のステージは異国の地への挑戦だった。

つづく

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