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「3年間1軍でプレーして初めてプロ野球選手」久保康友 ロッテ入団時に実践した競争社会で生き残るための思考「自分という選手を監督・コーチに印象付けないといけない」

3月からドイツ・野球ブンデスリーガの「ハンブルク・スティーラーズ」でプレーする久保康友投手。

昨シーズンはさわかみ関西独立リーグの「兵庫ブレイバーズ」でプレーし、若い選手とともに汗を流してきた。そのシーズン終盤に久保へ特別インタビューを実施し、日本の独立リーグを訊くとともにこれまでの軌跡についても伺った。

今回からNPBそして海外リーグと4回に分けてお送りする。本編ではプロ入りした最初の球団であるロッテ時代についてフォーカスする。

>兵庫ブレイバーズ編はこちら

(取材協力:兵庫ブレイバーズ 文:白石怜平)

”松坂世代最後の大物”としてロッテに入団

久保は1980年生まれの”松坂世代”。大阪・関西第一高校時代、3年春の選抜大会でその松坂を擁する横浜高校と決勝で対戦。直接投げ合って敗れるもチームを準優勝へと導いた。

同年夏の甲子園にも出場し準々決勝まで進出するなど、エースとして活躍した。その後社会人の松下電器(現:パナソニック)へ進み、04年ドラフト会議では自由獲得枠でロッテに入団した。

当時同学年の選手は大卒2年目を終えたシーズン。25歳の年に入団する久保は”松坂最後の大物”として注目を浴びた。※その後07年に多田野数人が日本ハムに入団

6年間の社会人野球を経てようやく掴んだプロ野球の世界。入団した当初の心境を振り返った。

「僕の中では、『3年間1軍でプレーし続けて初めてプロ野球選手だ』と決めて臨んでいました。3年間はどんなことをしてでもなんとか1軍で投げきろうと。なので、何でもやりましたよ」

昨年、単独インタビューに協力いただいた

チームで生き残るために自らを印象づけた1年目

プロの世界で生き残るため、まず投球フォームの改造に着手した。少し肘を下げスリークォーター気味にしたという。その他にも、オーバースローから速い球を投げる練習をするなど、監督・コーチの印象に残るように他の選手と被らないことを意識していたという。

「結果的に1シーズン乗り切れたのですが、入団した時は横一線で勝負するんですよね。そうなった時に、自分が一生懸命投げても周りみんな150km/hとかビシャビシャ投げるんですよ。パッと見てこの中からどうやって抜け出すのかなってのを考えるんですよね。

そうなると、やはり上から150キロ台の投手が並んでいても僕はそんなに目立たない。なので、肘を下げたんです。それだと被る人がいなかったですし、チームにスリークォーターで長いイニング投げられる投手もいなかったんですよ。それがあったので何とか残ることができましたね」

ルーキー時代、必死だったと語る

05年ロッテの先発投手は清水直行を筆頭に小林宏之、小野晋吾と右投手はオーバースローの投手が3人2桁勝利をマーク。さらに15勝で勝ち頭の”サブマリン”の渡辺俊介や左腕のダン・セラフィニ、そして久保が加わり多彩な個性派投手がロッテの強力先発陣を形成したのだった。

久保もこのシーズン10勝、リーグ最多の3完封を記録しチーム32年ぶりのリーグ優勝そして日本一に大きく貢献した。球団の新人で2桁勝利を挙げるのは55年ぶりかつ、右投手では初の快挙でもあった。

そして新人王も獲得するなど、1年目から輝きを放った。それでも出てくる言葉は充実感や満足感とは無縁だった。

「もう自分のことをやるので精一杯ですね。優勝した時はすごく嬉しかったんですけれども、自分という選手を監督・コーチに印象付けないといけないなと。そのためにどうやってインパクトを残すかで必死だったのを覚えています」

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