「いずれ自分は海外に出るものだと考えていた」アイスホッケー・三浦優希 17歳からチャレンジを続ける”決断の哲学”
再び選択の必要が生じた人生の岐路
三浦はその後も少年時代に憧れたチェコのアイスホッケーでメキメキと力をつけていった。そして、将来的にはクラドノのシニアチームと契約しプロ選手になることが一番の目標だった。
U-20での2年目、19歳の時に再び大きな転機が訪れた。まずは目標にしているシニアチームのトライアウトメンバーに呼ばれ、ここに残るべく必死にアピールを続けた。
ここでは残ることはできなかったが、U-20ではジュニアリーグで得点王のタイトルを獲得した。その活躍が評価され、ついに念願のシニアチームからの正式なプロ契約オファーを受けた。
ずっと目標に掲げてきた舞台に立つことができるという中、もう一つ大きな知らせが三浦のもとへ舞い込んできた。
アメリカジュニアの最高峰リーグであるUSHL (United States Hockey League)所属の「Waterloo Black Hawks(ウォータールー ブラックホークス)」からのドラフト指名を受けたのだ。
ここで、三浦に新たな将来の選択肢が浮上した。それは「NHL挑戦」だった。NHLは言わずもがな世界最高の舞台である。アメリカに行くこと=アイスホッケーの本場でプレーすることを意味する。
ただ、少年時代から憧れてきた舞台でプレーする挑戦権も得ている。実力で勝ち取った究極の二択。悩みに悩んだ末に三浦が下した決断は、アメリカでの挑戦だった。
「背景にはNHLに行けるチャンスが増えたということ、あとはブラックホークスでプレーした選手のほとんどがNCAA(全米大学体育協会)の Division1(※)の大学に進学していて、トップリーグでやれるチャンスがあるということでした。新しい環境にチャレンジしたいという思いのもと、アメリカに活動の場を移しました」
(※NCAAには1200以上の大学が参加しており、大学の競技レベルによってDivision1(D1)、Division2(D2)、Division3(D3)という区分に分けられる。D1はトップリーグに位置し、プロになる一歩手前のステップとされている)
迷ったら「難しいと思う方を選ぶ」決断の哲学
この決断は日本に別れを告げ、高校を自主退学しチェコへ渡った時と同じくらいの大きな決断だったという。
10代の頃から、茨の道をあえて選び続けている。その心は自身のnoteでもこう綴っている。
自分が人生を歩み続ける中で見つけた、この「決断の哲学」というのを私はこれからもずっと大切にしていきたいと思っています。何かに迷ったら「難しいと思う方を選ぶ」ことが、結果的に「その先にある楽しさ」につながると信じています。
三浦優希noteより
自ら選んだ道を信じ、人並み以上の努力を重ねた結果が今の三浦をつくりあげてきた。
2年半のチェコでの生活を経て20歳となる16年、三浦は次の活躍のフィールドをアメリカに移した。
(つづく)
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