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「1回の練習が自分のキャリアを決めていくような時期でした」アイスホッケー・三浦優希 数々の壁を乗り越え培った思考とターニングポイント

アイスホッケー世界最高峰のNHLへの挑戦を目指し、現在はMinnesota Wild傘下のECHL所属のIowa Heartlandersでプレーする三浦優希選手。

アイスホッケー日本代表として五輪予選や世界選手権にも出場するなど、世界を舞台に活躍する三浦選手は、日本人2人目となるNHL昇格を目指している。

17歳で早稲田実業高校を自主退学し単身チェコへ渡り、20歳からはNHLを目指しアイスホッケーの本場アメリカへと活躍の場を移した。

10代からの大きな決断を何度も選択してきた三浦選手だが、ここで初めてとも言える挫折を味わい、そして乗り越えてきた。本編ではアメリカに移ってから大学時代のプロセスをお送りする。

>チェコ挑戦編はこちら

(取材協力:LeadOff Sports、取材 / 文:白石怜平 ※以降、敬称略)

新しいスタイルへの順応に苦労しながらも這い上がった1年

20歳になる16年にチェコへと渡った三浦。2度目の異国への挑戦となったが、生活面では日本からチェコへ移った経験が活きた。

「例えばチームメイトとどう仲良くなっていくのか、一番最初の練習でどんなことを意識して臨まないといけないか、あとは自分の意思を示していくためにはどんな行動をするべきといった点。

これらはチェコにいた2年半の間にたくさん養うことができた部分でした。なので、アメリカに挑戦することにおいてつまずくことはなかったです」

生活面ではクリアできたが、本来の目的であるアイスホッケーでは人知れず苦労があった。

当時は20歳で、かつチェコから来た三浦は”オーバーエイジ枠兼外国人枠”の選手。双方の枠を使い入団したため、即結果を求められる立場だった。

さらにチェコでのプレースタイルとは異なり、チームでの役割も変わるなどプレー面でも大きな変化を強いられた。そのため、適応には時間を要した。

「Waterloo Black Hawksでは特に苦労した1年間でした。チェコでは得点王にもなれて、ある程度自信を持ってアメリカに行ったのですが、最初は全然活躍できなかったんです。振り返ると、チェコと比べてかなりハードなアイスホッケーを求められました。

シュートをたくさん打たないといけなかったり、思い切り体で当たりに行かないといけないなど、とにかくパックを前に動かすところへの適用に時間を使いました」

アメリカに移った際の苦労も語った(本人提供)

アジャストしている間に日が経ち、出場機会は次第に減少。シーズンの途中では、試合のメンバーから外れユニフォームすら着ることができず、観客席から見つめる試合もあった。

それでも三浦は前向きな気持ちを失うことはなかった。自身が掲げた「挑戦の哲学」にある、”何かに迷ったら難しいと思う方を選ぶ”を続けてきた通り、挑戦者の血がここで再び騒ぎ出した。

「チームのために自分にしかできないことがあるはずだと。今自分ができることを続けようとトライを重ねましたし、とにかくできる限りの準備を続けました」(三浦優希noteより)

これらの姿勢がチームメートや首脳陣の心を動かした。再び試合出場の機会を掴んでいき、シーズンの最後までチームの戦力として戦い抜くことができた。

シーズンが終わる頃には監督室に呼ばれ、「このチームに来てくれてありがとう。君はチームをいろんな場面で助けてくれた」と直接労われた。

三浦にとってこの一年は、今もアメリカで厳しい勝負の世界で生き抜く原点となる年になった。

姿勢そして実力で地位を確立していった(本人提供)

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