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「自分の身の振り方を考えないといけないと感じた」北海道日本ハムファイターズ 谷口雄也さん 大怪我による手術・長期のリハビリで起きた心身の変化(全5回 #3)

3月に手術。長いリハビリの始まりに

3月16日に手術。長く損傷した状態でプレーした代償がここで判明した。

「ほぼ1年無理してやっていたこともあり、骨同士がぶつかり合ってて軟骨に相当ダメージがあったみたいです。靭帯よりもこっちのが酷いって言われて(苦笑)。

軟骨の除去、骨にドリルで穴をあけて新しく骨膜を作るような手術もその時してくださいました。術後は3日間の寝たきり生活。トイレに行くこともできない。なので術後すぐはとても辛かったですね」

そこから1ヶ月近くの入院生活に。脚の筋肉に力を入れるだけのリハビリから装具をつけて歩く練習へと地道な訓練は続く。退院前に6センチほど細くなった患部を見て、「人間の体ってやっぱりここまで変わるんだなと。

入院するほどの大きな怪我は初めてで、当時20代半ばでしたけども大きな怪我がなくここまでプレーできていたなと丈夫な体に産んでくれた親に改めて感謝しました」と術後の心境を振り返った。

17年のシーズンは全休し、翌年の復帰を目指した。当時から甘いマスクとファン・マスコミへの真摯な対応といった人柄もあり、女性ファンを中心にチームでも人気No1を争う選手。

多くのファンから「ショックです」という残念な反応や、「頑張って戻ってきてください」という応援のメッセージなどが多く寄せられた。

野球はおろか日常生活すらもままならない日々も、「その言葉だけでリハビリ期間も頑張れたと思います」と一歩一歩復帰に向けて階段を登っていった。

ファンの声がリハビリの力になった

術後から半年以上が経過した10月、フェニックスリーグで実戦に復帰。

「”一打席だけ”とトレーナーさんと約束をしていました。球が速すぎて見えませんでしたね、三振して終わりました(笑)」と語り、翌年から巻き返しを図るスタートラインにようやく立てた。

大怪我を経て変化した意識と立場

筆者もこれまでトミー・ジョン手術や前十字靭帯の手術といった、大怪我や長期のリハビリから復帰したアスリートを取材してきた。

その時にアスリートから聞いた言葉で共通していたのが、「自分の体に興味をもっと持てていたら復帰後の結果が違ったかもしれない」「怪我をきっかけに興味を持って研究した」ことだった。

今回は谷口さんに、この怪我をきっかけにどんなことに気づいたかを訊いてみた。

「自分の体の向き合い方が変わりましたね。、普段の会話で大腿骨・脛骨なんて言葉ってしないじゃないですか?(笑)とにかく体の仕組みを勉強し、思ったことを体で表現するために”どの筋肉をどう動かしたらいいのか”を深く考えるようになりました」

体の動き一つ一つに向き合うようになったという

また、心境そして自身の立ち位置の変化がこの一年で大きく生じたという。日本一の翌年とは思えないギャップがあった。

「16年まではそれなりに試合に出ていましたし、周りからも正直、チヤホヤされたと思います。記者の方たちとも試合が終わる度に何か野球のネタを話したり、その日のことを囲み取材で話をしたりすることが毎日のようにありました。

でも、怪我をしてから全くと言っていいほど話をする機会がなくなった。これはもうプロ野球界では自然な流れなのかなというのはありましたね。新庄監督も『怪我をしたら選手じゃなく一般人と同じ』とよく仰っていますがまさにその通りだなと。

ある程度脚光を浴びたと自分で言うとおかしいかもしれないのですが、気にかけられてた立場から全く気にかけられなくなった。その時に自分の身の振り方を考えないといけないんだと気付かされました。流れの素早さ感じた時期でした」

18年終盤に復帰するも、違和感との戦いに

17年のフェニックスリーグで実戦復帰を果たし、再起をかけた18年シーズン。しかし、手術した膝が体に馴染むには時間を要するものだった。

「僕は前十字(靭帯)の怪我に完治はないと思っていました。体にメスを入れて自分の体じゃないな、右足だけ人の体で野球してるような感覚というのはずっと感じていました。今でもそうですけれども、どうしても止まるときや切り返し、着地するときもすごく気を使いますから」

自身の体と相談しながら練習や試合を重ね、一軍の舞台に帰ってきたのはシーズンが終わろうとした頃だった。ようやく頭で思ってたことが体で表現できるようになったのが19年からだったという。

患部が馴染むのにも時間を要した

「復帰した時はシーズンも終わるころ。戦力として試合に出たかったなというのは思います。”こういう体の使い方をしたらもっと強い打球が打てる”などと感じられるようになったのは19年~21年の3年間でしたね」

19年には30試合に出場し、自身3年ぶりの本塁打も放った。20年は7試合出場に終わり、勝負の年として臨んだ21年。この年の春に起きた膝とは別のアクシデントが選手生命に関わるものだった。

つづく

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