元甲子園球児・小暮涼 振り返る野球人生の軌跡 悩んだ先に行き着いた天職への扉
かつて春日部共栄高校で甲子園に出場し、現在は野球スクール「Link BASEBALL ACADEMY」を運営する小暮涼さん。
指導者を務める傍らで、アーバン(都市型)スポーツ「Baseball5」の選手としてもプレーし、2月には日本代表候補にも挙がる活躍を見せている。
教員を目指しながらプレーした大学時代や選手としてのウインターリーグ参加など、濃い野球人生を送ってきた。
今回は小暮さんの競技そして指導者人生を振り返りながら、現在の挑戦も追いかけていく。
(取材 / 文:白石怜平)
「寮生活をしたい」強豪校との関わりで芽生えた意識
小暮が野球と出会ったのは3歳の時。2人の兄が野球をやっていた影響で物心がついた時から白球を追いかけていた。
当時兄が通っていた野球スクールに一緒に連れて行ってもらい、コーチとボール遊びをしたのが原点。その原点が今へと繋がっていた。
本格的に始めたのは小学3年生の時。地元の硬式野球チーム「深谷ボーイズ」でスタートした。途中「本庄ボーイズ」へ移り、高校は埼玉県の名門・春日部共栄高校に入学した。
その過程ではある考えがあった。
「元々、親元を離れて寮生活をしたい気持ちがありました」
それはなぜか。ボーイズ時代に出場した全国大会での出来事がきっかけだった。
「遠征先で滞在したホテルに広陵高校と中京大中京高校が泊まっていました。そこで広陵の主将の方が僕らのところに来て話をしてくれたんです。
広陵について調べたら寮生活で、全国からいろんな選手が来ていることを知った時にすごいなと思ったんです。
その時から寮生活をしていろいろな選手が集まる高校で野球をやりたいと考えるようになりました」
3年時、チームメイトと春日部共栄の練習に参加した際に監督からも「寮を空けて待っているよ」という言葉があり、即決した。
壁を乗り越えて3年夏ついに甲子園の舞台に
春日部共栄ではまず衝撃からのスタートだった。小暮が入学した当初の部員は3年生までで140人。同級生だけでも60人いる大所帯だった。
「とんでもないところに来たと思いました。3年生は体大きいし、すごく打球も飛ばしますし。ただ、入った以上はやるしかないと思いました」
そんな中で実力を伸ばした小暮は1年秋にベンチ入りを果たし、2年生の秋には二塁のレギュラーを奪取。チームを牽引する存在になった。
しかし、甲子園に向けて順調に階段を登っていた中で暗転する出来事があった。
「2年秋の大会で埼玉ベスト4まで勝ち上がって、次勝てば関東大会に出場できたのですが、公立高校に0−1で負けたんです。その時はみんなで落ち込みました。
関西とか四国の強豪校と練習試合で勝って自信を持っていました。天狗になっていたつもりわけではないのですが…」
一度はつまづいたものの、再度尾を締め直したナインは奮起。3年夏(2014年)は埼玉県大会を制覇し、甲子園出場を勝ち獲った。
野球人なら誰もが憧れる舞台。当時の心境をこう語った。
「思ったより楽しめました(笑)。埼玉県大会の方が緊張しましたね」
この時はチーム事情で二塁手は併用制ながらも確かに甲子園のグラウンドに立ってプレーした。今子どもたちの指導に勤しんでいる身として、その経験は財産になっている。
「甲子園は子どもたちも憧れる場所なので、『(甲子園に)行ったんだよ』っていうと目を輝かせてくれます」
教員を目指した大学時代と実習で抱いた疑問
プレーしていると同時に、次のステップについては既に頭に描いていた。
「高校の先生をやりながら指導者をやりたいと考えていました」
教員免許取得と野球を続けることを考えて八戸学院大学へと進学した。
同大学OBには現在広島で活躍する秋山翔吾がおり、小暮の同級生には巨人でドラフト1位で入団した髙橋優貴がいるなど、野球のレベルも高い大学。
ただ、生まれも育ちも埼玉だった小暮にとって青森の八戸は未開の地だった。
「共栄から行くのも初めてで知っている先輩もいない中でしたし、しかも進学を決めるまで八戸には行ったことすらなかったです(笑)。
ただ、中学卒業から寮生活も始めてどこでもやっていけるという自負はあったので、すぐ決めました」
小暮は大学でも上述の通り野球を続けた。しかし、高校では最高の舞台を経験した一方で大学生活の思い出としては苦いものが残ったという。
「大学では優勝できなかったので、悔しい思いが強いですね…富士大学(岩手)の壁が厚く、そこに負けてしまっていたので」
一方で、学業にも力を入れていた小暮は在学中に教員免許も取得。母校での教育実習も行うなど着々と目標に向かって進んでいた。
しかし、その実習の際にある疑問を抱くようになった。
「一番は指導者になることが目標でした。ただ、実習の中で教師と指導者の両立は難しいなと感じたんです。学校の仕事も大変ですし、重きに置いている野球の指導者として成長できるのかなと思って…」
悩んだ小暮は大学の監督に相談すると「指導者になりたいのであれば大学でやるのはどうだ」という助言をもらった。
卒業後は職員として残り、大学で働きながらコーチを務めた。コーチとして指導者としてのキャリアを歩み出した小暮には、また新たな志ができていた。
それは野球スクールの運営だった。自身が野球と出会ったルーツとも言える場所。24時間大好きな野球と向き合いたい。そんな想いから徐々に挑戦に向けた構想を練り始めた。
ここで小暮は一つ大きな決断を下した。
「3年勤めた大学を辞めてアメリカへ行きました。指導者の勉強をしてから開講しようと思い、知り合いの伝手をたどって行きました」
一年間は資金集めなど準備期間に充て、昨年始めついに単身アメリカへと渡った。
(つづく)