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元オリックス・小川博文さん 名伯楽から学んだ打撃向上のヒントと震災で感じた”人の温かさ”

かつてオリックス・横浜(現:DeNA)でプレーした小川博文さん。当時オリックス・ブレーブスでプロとしてのキャリアをスタートし、ルーキーイヤーからレギュラーとしての地位を掴んだ。

名将上田監督からの信頼を受けた若き遊撃手は、91年からチームの移転に伴い神戸が主戦場に。アマチュア時代にもプレーした神戸の地で根を張っていくことになる。

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(取材協力:オリックス野球クラブ 文:白石怜平 ※写真は2022年撮影)

91年から神戸でプレー。グリーンスタジアムとの縁とは?

91年からチームはブレーブスから改称し「ブルーウェーブ」に、本拠地も西宮球場からグリーンスタジアム神戸(現:ほっともっとフィールド神戸)へと移転した。

88年に開場した同球場と小川さんには浅からぬ縁がある。開場したのが3月6日で小川さんの誕生日。できたばかりのこの年はソウルオリンピックが開催された年で、日本代表としてもこの地でプレーしている。

「その時に神戸ハーバーランドの近くのホテルに泊まったのを覚えています。神戸の街並みもすごく好きで、海と山が近くにあって夜景も綺麗。本当におしゃれな街でずっと好きでしたね」

小川さんにとっても縁の深いほっともっとフィールド神戸(2021年撮影)

指揮官も長年ブレーブスを率い、4連覇を含む5度の優勝に導いた上田利治監督が退任し、巨人V9の正二塁手で地元神戸出身の土井正三さんが監督に就任した。

「土井さんはジャイアンツの素晴らしい内野手で、僕も二塁・遊撃を守っていたので、『こうやって足を使うんだよ』などと守備のことなどをたくさん教えてくださいました」

土井監督の3年間はいずれも3位とAクラス入り。小川さんはこの間、ルーキーで当初内野手だった田口壮選手(現:一軍外野守備・走塁コーチ)や巨人から勝呂壽統選手の加入や、93年後半に遊撃手から三塁手にコンバートとなるもレギュラーの座を守り、2年連続(91・92年)でオールスターにも選ばれる活躍だった。

名将・仰木彬監督の就任と名伯楽から教わった打撃の真髄

そして94年、オリックスの歴史を大きく動かした男がユニフォームを着る。仰木彬監督の就任だった。その采配や起用法から付けられたあのフレーズについて、実際にプレーしていた立場から語った。

「仰木さんの采配というと、みなさん言われる”仰木マジック”。打順をうまく入れ替えて、適材適所でこの投手に対してこの打者が合うなどとされていましたよね。でも、僕らからすると”マジック”ではなく、しっかり計算して考えられているので根拠があるんですよね。あとすごくユーモアがあって、楽しかったですよ。怒られたこともありますけども、たくさんかわいがってもらいました」

仰木監督時代も充実していたと語る

そして小川さんにとってもう一人の恩人が95年からヘッドコーチを務めた中西太さん。西鉄ライオンズでの現役時代、指導者としても近鉄で仰木さんと共に戦った名打撃コーチである。中西さんから教わったことを明かしてくれた。

「仰木さんと太さんでタッグを組んでね、同じ右バッターでもあるのでたくさん吸収しました。バッティングでは手の力ではなく下半身主導からの連動で上に伝えていくんだと。それで逆方向・右バッターなら二塁手の頭を超えるイメージ。

それができないと、なかなかいい結果を出せない。専門的に言うと外角にくる確率がおよそ7割、もっと行って8割とかなんですよ。

インコースは可能性が高くて3割。そのアウトコースの球をいかに打つかってことですよね。自分から遠い、つまり力が伝わりにくい球を、いかに逆らわずに打てるかを教わりましたよ」

当時のオリックスには新井宏昌コーチも在籍しており、豪華なコーチ陣がいた。小川さんも94年には初の打率3割を打ち、連覇した2年間も打率.270以上を記録するなど、攻守に安定感を見せた。

「あの時は野球はおろか命も助からないかも知れなかった」

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