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「みんなを活かすためにどう動くかを考えた」元サッカー日本代表 鈴木啓太 浦和レッズ入団からの苦労とオフト監督の教えとは?

サッカー元日本代表で、現在はアスリートの腸内細菌を解析するバイオベンチャー「AuB株式会社」の代表を務める鈴木啓太氏。

サッカー選手としては、2000年の入団から15年に引退するまで浦和レッズ一筋で現役生活を全うした”バンディエラ”でもある。

これまでは、鈴木氏のAuB株式会社代表としての活動をメインに取材してきた。本連載では、サッカー選手としての現役生活にフォーカスし、レッズ入団から引退までについて話を伺った。

(取材協力 / 写真提供:AuB株式会社、文:白石怜平、以降敬称略)

00年、浦和レッズに入団「自らの目標を達成するために逆算」

鈴木は、MFとして東海大翔洋高校から2000年に浦和レッズに入団。前年J2降格が決まり、各メディアで大きく取り上げられるなどスポーツ界に大きな衝撃を与えていたタイミングだった。

レッズはJ2で奮闘。大分トリニータと最終節までもつれた昇格争いを制し、最終的に2位となり1年で再昇格を決めた。

前年に続き激動のシーズンを送っていた中、19歳のルーキーは1試合ベンチに入ったのみだった。ただ、その当時からある目標を立てていた。

「自分の中では、日本代表としてワールドカップに出たいという目標があって、そのために何をするかという逆算のもとトレーニングをしていました。

当時は岡野(雅行)さんがいたり、(小野)伸二さんがいたり、福田(正博)さん、や井原(正巳)さんなどすごいメンバーがいました。先輩方から学びつつも、自分がどうやったらその夢・目標を達成できるかを常に考えていましたね」

「お前は絶対使わない」からレギュラーを獲得

前年果たせなかったリーグ戦出場を目指し臨んだ2年目のシーズン。

鈴木は入団時に3年契約を結んでおり、1年目は身体づくりをメインにトレーニングを中心に、2年目にはJリーグの公式戦に出場し3年目にはレギュラー獲得することを考えていた。

迎えた01年シーズン、苦労と葛藤を抱えながら過ごしていた。鈴木はある出来事について話した。

「当時、監督から『お前は絶対使わない』と言われていました。そこで焦りはありましたね」

プロに入った時から掲げていた”日本代表としてワールドカップに出場する”とともに、チームで試合に出場しレギュラーを獲得することも直近の目標であった。これらを常に念頭に置き、日々のトレーニングから意識して臨んでいた。

目標を達成するために1つ1つのプレーを選択する。トレーニングの時から常に100%でボールを奪いに行き、味方であってもぶつかって行くことを厭わなかった。

レギュラーを獲得するまでの葛藤を語った

「『お前の練習じゃないんだ』と。試合に出るためには自分がアピールをしないといけないので(自分の考えは)間違いではないと思いますが、監督が求められていることとは違いました。

ただ、最終的に監督がメンバーを決めるので、まずは監督に使ってもらえるようにしないといけない矛盾を感じていた。難しいなと思いましたね」

監督の言うことも理解しつつも、自身は一選手であり競争社会を生き抜かないといけない立場。当時20歳であっても、結果を残せなければユニフォームを脱がされてしまう。

「自分も若かったので、『それってダメなの?』とは思いましたね。もちろん監督の意図も理解できないわけじゃないし、僕が監督だったらそう考えると思います。

ただ、当時は監督じゃなくて一選手。当然気をつけなければならないですが、激しくボールを取りに行くことも必要になります。それでも伸二さんは『大丈夫だよ』って言ってくれたのが救いでした」

そんな中でもチャンスを掴み、当時の2ndステージ15試合に全て出場。第2節からはスタメンで出場しレギュラーを獲得する飛躍のシーズンとなった。

「チャンスが巡ってきて試合出れるようになって、『このチャンス逃したらもう先はない』と思いながら無我夢中でした」

と当時を振り返った。

大きな学びとなったオフト監督の教え

鈴木もフルシーズンでの活躍が期待された3年目の02年。この年から就任したのが、93年のワールドカップアジア最終予選、あの”ドーハの悲劇”で日本代表の指揮を執っていたハンス・オフト監督である。

鈴木には、オフト監督からどんな教えがあったのかを尋ねた。

「サッカーの基本です。ポジションを正確にとるなど、もちろん動き回ることは大事なのですが、自分だけ動き回っても意味はないということで、チームをオーケストラに例えてくれました。

監督は指揮者で、『オーケストラはみんなと息が合っていることが必要だし、バイオリンが前に出ることもあれば、フルートが出るパートなどそれぞれの役割がある。そこが揃って初めていい試合ができる』と。

あと、チームとしての連動ではアコーディオン。伸び縮みするけども、伸びきっちゃいけないというように、調和を大事にされていました」

オフト監督が指揮を執った2年間(〜03年)、チームは02年こそ年間11位だったが、03年は6位と大きく順位を上げた。

この時期を改めて振り返った。

「エメルソンや田中達也、永井(雄一郎)といったFW陣が当時いたので、みんなを活かすためにどう動くべきかは常に考えていました。

オフト監督の教えはロジカルで分かりやすかったです。ただ、(監督の教えを)理解し始めたところで代わってしまったので、もう1年やりたかったなと思いましたね」

鈴木も出場試合数を02年は26、03年は29と伸ばし不動のMFとして定着。04年のアテネ五輪出場に向けたU-23日本代表にも選出され、さらに飛躍していった。

つづく

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