サッカー元日本代表 鈴木啓太 アテネ五輪最終予選での出来事と掴んだ赤き栄光

サッカー元日本代表で、現在はアスリートの腸内細菌を解析するバイオベンチャー「AuB株式会社」の代表を務める鈴木啓太氏。

浦和レッズ一筋16年間プレーした”バンディエラ”であり、現在も自社商品の売り上げを同クラブアカデミーの強化費等に還元するなど関わりは続いている。

本連載では鈴木のサッカー選手としての現役生活にフォーカスし、今回は第2回となる。

本編では、AuB設立のきっかけの一つであるアテネ五輪アジア最終予選での出来事と浦和レッズのJリーグ年間王者・ACL制覇の時期をメインに伺った。

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(取材協力 / 写真提供:AuB株式会社 文:白石怜平、以降敬称略)

「コンディションの重要性」を強く感じたアテネ五輪最終予選

オフト監督の下、MFの定位置を奪取した鈴木はU-23日本代表にも選出。04年アテネ五輪出場を目指し予選を戦った。

同年3月に行われたアテネ五輪アジア最終予選。これは、現在自身が代表を務めるAuB社設立のきっかけの一つでもあるため、当時のエピソードを伺うことにした。

3月1日〜5日の間、UAE(アラブ首長国連邦)で行われる3試合に臨むため日本代表は現地入り。鈴木はこの最終予選でキャプテンを務めた。

初戦のバーレーン戦で敗れるも、2戦目のレバノン戦では鈴木も得点を挙げるなど4-0で快勝。次にグループリーグ首位で開催国のUAEとの試合を控えていた。

その前日から試合前にかけて、予想もしない事態がチームを襲った。

練習後から腹痛を訴える選手が続出した。その後も下痢や微熱の症状を訴える選手が増えていったのだった。当時の状況は今も鮮明に覚えているという。

「みんな徐々に体調が悪くなっていった。ただ、僕は全くそれがわからなかったんですよ。ウォーミングアップ前や試合直前も。普段そんなことないんですよ。

でもあの時は体調を崩す選手が増えていって、ドクターやチーム内でも『これはまずいな』となりましたし…。最終戦、UAEとの試合前にも大勢がトイレに駆け込んで埋まっていたので、『そんなに酷いの?』『どうしたのみんな?』という感じでした」

当時の話はAuB社を語る上でも外せないエピソードである(20年ジャパン・コーチズアワードでの講演にて)

中には緊急帰国を余儀なくされる選手もいるほど深刻だったが、上述の通り鈴木は影響を全く受けることはなかった。

「後から振り返ると思いますけれども、日頃からサプリメント持っていったり、緑茶や梅干しを常備していたので自分は影響を受けなかったのかもしれません」

チームのコンディションが最悪という状況を乗り越え、日本代表は敵地でUAEに勝利。その後の日本ラウンドでも2勝1敗、計4勝1敗1分でグループリーグ1位となり、3大会連続で五輪出場を決めた。

その当時の経験は、今の活動にもつながるものになっている。この話題の最後に改めて語った。

「みんな試合に懸けて一生懸命やってきた中で、コンディションが整わなかったためにパフォーマンスを出せない。大事な場面で力が出せないというのはどれだけ不幸なことなのかというのを強く感じました」

講演やメディアでの取材でも、「いくら技術を磨いていても、試合でパフォーマンスを出せなかったら意味がない」と語るなど、コンディションの重要性を発信し続けている。

06年・07年、ベストイレブンに輝きクラブを優勝に導く

出場権を勝ち取ったアテネ五輪であるが、鈴木は惜しくも本戦出場は叶わなかった。経緯は自身のYouTubeチャンネルやメディアで語っているためここでは割愛するが、その悔しさを糧にレッズでのシーズンに臨んだ。

06年・07年は選手として最高の栄誉を勝ちとった2年間となる。レッズは06年にクラブ初の年間王者、07年には日本のクラブとして初のACL制覇を成し遂げた。

鈴木もこの間いずれもJリーグベストイレブンに選出され、特に07年には全国のサッカー担当記者によって選ばれる「日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)」にも輝いた。

プロサッカー選手として数々の栄誉を手にしていった2年間だったが、当時の苦労を語った。

「プレッシャーがすごくありました。優勝を義務付けられていたチームだったので楽しみながらではなかったですね。

もちろんその中でプレーすることの喜びはありましたし、次の目標を10年のW杯代表に置いていたので、Jリーグのチャンピオンを獲ればそれも見えてくると感じていました。

ただ、自分じゃなくてサポーターの皆さんが喜んでくれたというのが一番でした。現役を辞めてから改めて『すごい場所だったんだな』と思いましたし、日本のクラブであれだけの雰囲気を味わえることはそうないですよね」

当時の栄光もプレッシャーだったと振り返る

09年には山田暢久の後を継いでチームキャプテンに就任。同い年の阿部勇樹とボランチを組み、レッズの中盤を支えた。

そして高校時代から目標に描いていたというW杯(南アフリカ)が行われる10年を迎えた。06年ドイツW杯後に就任したイビチャ・オシム監督時代は、鈴木も代表に選出されていた。

オシム監督が「水を運ぶ人(チームのために走り続けるボランチを評した表現)」と称し、在籍期間で唯一A代表で全試合に出場するなど主力選手として牽引していた。

しかし、オシム監督は07年に脳梗塞で倒れ、その後岡田武史監督が再就任。その間、鈴木自身も扁桃炎に見舞われてしまう。それ以降、日本代表から離れ悔しくも代表選出は叶わなかった。

さらに10年は故障の影響もありレッズでは17試合出場に終わるも、翌11年からは、レギュラーに再び返り咲いた。

その後も安定して出場を続けていたが14年、突然鈴木の体調に異変が起きたのだった。

つづく

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