いわきFC 誕生のルーツはビジョンの共感 「市民に愛されるスポーツ団体をゼロから創る」〜いわきFC 特別連載企画(第1回)〜
昨シーズン、発足から6年でJFLを制覇し、J3昇格を果たしたプロサッカークラブ「いわきFC」。
「日本のフィジカルスタンダードを変える」をコンセプトに、若く屈強な選手たちがピッチを駆け回る。「Jリーグ昇格を目的としていない」という考えを持つなど、サッカー界の常識を覆す挑戦を続けている。
今回、いわきFCができたルーツから今までのストーリーを4回に分けて特集する。クラブ創設者の1人である、大倉智・代表取締役にお話を伺った。
(取材 / 文:白石怜平 ※以降、敬称略)
「雇用を創出し、経済を回すことが復興の本質」
いわきFC誕生のきっかけは”3.11”、2011年の東日本大震災である。
震災発生の8日後、株式会社ドーム(以下、ドーム社)の安田秀一・代表取締役社長(肩書きは当時)は支援物資を届けるため被災地を訪れた。
街一帯が壊滅した姿を目の当たりにし、「僕らは逃げる側ではなく、救う側にいなければいけない」と本能的に感じたという。
ドーム社は『スポーツを通じて社会を豊かにする』というミッションがある。その中で”東日本大震災の復興から成長へ寄与する”ために立ち上がった。
15年にドーム社はこの想いを実現するため、いわき市に物流倉庫を建てた。雇用を創出し、経済を回すことが復興の本質であると安田は考えたのだ。
14年、安田と大倉の運命が交わることになる。話は前に遡るが、2人は同い年で大学時代から面識があったという。安田は法政大のアメフト部で大倉は早稲田大のサッカー部。
一見接点がないように感じるが、早稲田のアメフト部に共通の友人がおり、そんなことからお互いのことは知っていた。
安田は卒業後、商社を経て96年にドーム社を創業。アンダーアーマーの日本総代理店を担うなど、実業家として会社を成長させていった。
一方、大倉は卒業後も実業団でサッカーを続け、柏レイソルがJリーグに昇格した94年にプロへ転向。98年にアメリカでプレーし引退した後はスペイン留学を経てフロントへ転身。
セレッソ大阪を経て05年からは湘南ベルマーレの強化部長に就任し、14年4月からは社長としてクラブ運営を担っていた。
大倉が社長に就任した14年、かねてからクラブと取引のあったドーム社の社員を通じ安田から「会いたい」と話が来た。