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「あの試合が僕にとっての転機。本当に衝撃でした」三重ホンダヒート 近藤雅喜 二刀流への道が開いたトッププレイヤーの試合裁き(全5回 #3)

ジャパンラグビー リーグワンの三重ホンダヒートでプレーし、レフリーとしても活躍している近藤雅喜選手。

選手としてはセブンズの日本代表に選出され、学生時代に何度も着続けてきた”桜のジャージ”を身に世界で戦った。そしてもうひとつの目標であるトップリーグでもついにデビューを果たす。

ただ、それ以上に人生の転機がこの後訪れるのだった。

>第2回はこちら

(取材協力:三重ホンダヒート 取材 / 文:白石怜平、以降敬称略)

ラグビーを始めた原点の場所で目標が達成に

18年は秋からセブンズの日本代表に召集され、7人制で世界の舞台で戦ってきた。次なるステップは、もうひとつの目標であったトップリーグ出場だった。

近藤の1年目にあたる17年、チームはトップチャレンジリーグに所属していた。この年全勝で翌年はトップリーグに自動昇格するも、自身は開幕直後にセブンズへと行ったため、3年越しでその機会が訪れた。

待望のトップリーグデビュー戦は20年1月25日の東芝ブレイブルーパス(現:東京)戦。前半27分から途中出場した。待望のデビュー戦、ここでも運命のような出来事があった。

「会場が地元愛知県のパロマ瑞穂ラグビー場。実は僕がラグビーを始めた時、ちょうどこのラグビー場からだったんです。なので、慣れ親しんだ場所というのもあって落ち着いていました。ここで良かったなって(笑)」

ラグビーを始めた原点の地がデビュー戦となった(提供:三重ホンダヒート)

日本協会関係者(当時)からの提案が選択肢に

その後も出場を重ねてきたが、ここでまた1つ大きくブレーキをかけられてしまう。それは新型コロナウイルスの世界的拡大である。

シーズン残りの試合は中止となり、スポーツ界のみならず全世界であらゆる活動が自粛になった。街から人が消え、外に出ることもままならない状況になった。

近藤に限らず、選手でいられる時間に限りがあるアスリートにとって、競技活動そのものができないというのは痛手以外の何ものでもなかった。

自宅から出られない日々が続き、「ラグビーがもし自分のところからなくなってしまったらどうなってしまうんだろう」という不安にも苛まれた。そして、このコロナ禍をきっかけに引退後の活動について真剣に考えるようになったという。

「当時はレフリーも選択肢のひとつになるかもしれないと薄々思ったりもしましたが、正直そこまで強くはなかった。ただ、ラグビー選手が終わったときにどうなるのかという気持ちには強く駆られてはいましたね」

コロナ禍を機に将来についてより考えを深めた

将来について考え始め、チームも活動を再開。そんな中で転機が訪れた。

「2019年のW杯が終わった時に、当時トヨタ自動車(現:トヨタヴェルブリッツ)の滑川(剛人)さんが、トッププレイヤーでありながらレフリーに挑戦したんです。その話を伺ったのが最初でした」

近藤も実際に提案を受けた機会もあったというが、最初は”やります!”という回答はしていなかった。

「当時僕はまだ選手(の割合)が100%でしたので、うまく濁していました(笑)ただ、引退後もラグビーに関わっていきたい想いもありますし、指導者がまずありながらも数ある選択肢の中に『レフリーというもあるんだ』と、頭の片隅で思ったくらいでした」

日本協会関係者(当時)の提案で増えた新たな引き出し。片隅にあったその引き出しはいつしか興味へと変わっていく。

「子どもの頃にラグビーを始めた思いと同じだった」

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