満塁弾被弾で「NPBへ行ってみたい」元巨人・山川和大 身長166cmの育成右腕をファーム最多勝へ導いた3人のストーリー
2020年にファーム最多勝を獲得した元G戦士は、現在29歳で独立リーグの監督となっている。
さわかみ関西独立リーグの「兵庫ブレイバーズ」で指揮を執る山川和大(ともひろ)。17年から育成選手として5年間、巨人の投手だった。
身長166cmで、高校時代は軟式野球部の内野手だった山川。体格や球歴どれを見てもNPB入りが厳しく見える中で巨人へ入団し、なぜタイトルを獲る活躍ができたのか。
その過程には、山口俊・杉内俊哉そして阿部慎之助という3人の名選手なしでは語れないストーリーがあった。
オリックス戦での満塁本塁打被弾がきっかけに
兵庫県の芦屋学園高校から芦屋大学へ進学した山川は、大学が「兵庫ブルーサンダーズ(現:ブレイバーズ)」と提携することになり入団、硬式野球を開始した。当時の池内豊コーチ(元阪神ほか)に才能を見出され、投手への挑戦も始めた。
当初は教員を目指していたが、2年時の14年に「この試合がきっかけでした」と断言するターニングポイントが訪れる。
「BFL選抜としてオリックスの二軍と交流戦があって、初めてマウンドに上がったんですが、そこで山本和作さん(現球団職員)に満塁ホームランを打たれました。
初めての投手相手でこんな簡単に打たれんねやと思いましたね。一方で、空振りを取れたりした時に『NPBに行ってみたい』気持ちが沸いていきました」
この試合で146km/hをマークした右腕は、残り約3年で最速152km/hまで伸ばすなど実力を培った。16年の育成ドラフト3位で指名を受け、NPBの世界へと足を踏み入れた。
「一番野球が上手くなった」山口俊と過ごした時間
背番号は”003”だったが、「今は勝てないけど、将来この世界で活躍する」と意気込んでキャンプに臨んだ。生粋のポジティブ男は早速この場でも発揮した。
「山口俊さんが怪我で3軍スタートだったので、キャッチボールをさせてもらいました。立場も育成ですし、本来声をかける方ではないかもしれませんが、僕からしたら『こんな方が身近におるのがありがたい』と思いガッつきました(笑)」
快く受けてくれた山口とのキャッチボールで、当初抱いた思いは早速打ち砕かれた。
「その時はもう、『とんでもない場所に来てもうた』と思いました」
手元で伸びる球に圧倒され、受けるたびに恐怖だったという。ただ、これを機に交流が始まり、2年目からは自主トレを共に行う間柄となった。
その内容は、「俊さんとの期間で一番野球が上手くなった気がします」と語るほどだった。
「股関節や肩甲骨、さらには左手のグラブの使い方とか、本当に数え切れないぐらいです。教え方もすごく丁寧で、『俺はこうだけどお前はこのタイプだからこっちじゃない?』などと体格もパワーも違う僕に合わせたアドバイスをくれました」
ただ、山川は入団から2年間は苦労の日々だった。怪我もあり二軍戦での登板すらなかった。
不安に苛まれる中、「自分の動画を送らせてもらったりとか、何かあるごとに俊さんには連絡していました」と、一軍で投げる先輩が心のよりどころだった。
杉内コーチから教わった”もうひとつの球種”
後がない3年目の19年、ようやくチャンスが訪れた。開幕2戦目となる3月17日の北海道日本ハム戦(ジャイアンツ球場)で初登板。上原浩治の後に3番手としてマウンドに上がった。
その後も投げ続け、21試合登板で2勝1敗1セーブ、防御率3.34をマークし翌年も契約を更新した。
さらなる飛躍を図るため、武器のスピードボールを活かす緩急を付けたいと考えていた。ここでもう一人の恩人が登場する。
「当時二軍コーチだった杉内(俊哉:現巨人投手チーフコーチ)さんからチェンジアップを教わったのが大きかったです。フォークは手が小さいので投げれないですし、スプリットを投げてはいたんですけども、空振りを取れるような球ではなかったんです。チェンジアップが決め球になってから、投球の幅が広がりました」
杉内コーチから教わったのはこれだけではなかった。当時一部スポーツ紙で”
一人時間差投法”と報じられたことを思い出しながら語った。
「ランナーがいなくてもクイックで投げたり、足を上げるときも少しタイミングをずらしたりしていました。それも『球種が増えることだよ』と教えてもらいました」
紅白戦やシート打撃で実践し、対峙したチームメイトからは笑いを交えて”インチキ”などと言われたそうだが、
「それは相手にとって嫌なことだと思いましたし、抑えるために僕は何でもしたかったんで全く気にしなかったです」とあくまで結果でアピールした。
「タイトルを獲得できたのは阿部さんのおかげです」
そしてもう一人、欠かせない人物を自ら挙げてくれた。
「僕の中では阿部(慎之助:現監督)さんがいてくださったのが大きかったです」
20年から二軍監督に就任し、今年から一軍で指揮を執っている名捕手からあることを学んだという。
「配球のことを教えてもらいました。基本はキャッチャーに伝えていましたが、僕も2回ほど監督室に呼んでくれて、投げた試合のチャートを見せながら『これだけアウトコースに放っているけども、インコースがこれだけしかない』とか、『チェンジアップは全部この低さに来ているからいいよ』といったお話をさせてもらいました」
新型コロナウイルスの影響により短縮したシーズンではあったが、イースタン・リーグも開幕すると山川は好調を維持した。ハーラートップまであと1勝と迫っていた最終戦、阿部監督の計らいを意気に感じた。
「西武戦で、4回から勝っている展開で投げさせてもらいました。その試合を抑えて勝った後、『お前最多勝じゃん』と言ってもらったんです。そこは監督がやってくださったんだと思います。タイトルを獲れたのは阿部さんのおかげです」
阿部監督への感謝は今でも持っている
20年の成績はリーグ最多タイの5勝、防御率は2.50だった。しかし、それでも支配下選手に上がることはなかった。
「シーズンに入る際、年間防御率0.00っていうのを目指して圧倒的な結果を残さないと支配下登録は無理だと思っていました。実際期限まで防御率0.00だったので、『これで無理やったら、何したらいいねん』って思った部分もあったのですが、阿部さんが監督・杉内さんがコーチとそうそうたるメンバーがいた中だったので、一軍では通用しないという判断だったのだと思います」
21年はかねてから痛めていた右肘が悲鳴をあげ、二軍戦の登板は0に終わった。この年限りで自由契約となり、NPBでのキャリアにピリオドが打たれた。
巨人での5年間ファームで戦った経験を踏まえ、どんな選手が一軍で活躍するか、その違いを訊いてみた。
「僕は一軍で投げてないので自分の経験の中での話になりますが、
調子の上下が少ないこと。この差だと思いました。1試合だけだったら、抑えられる投手はたくさんいると思うんです。
ですが、年間143試合になると必ず相手も対策をしてきますので、そこで抑えられるかどうかだと思います。一年間戦い続ける体力も大きな要素になってきますね。特に僕は怪我が多かったので」
「選手に強く伝えています」阿部監督の教え
22年から兵庫ブレイバーズに復帰。NPBを経て独立リーグに帰ってきた当時の心境を明かした。
「バッティングのボール見たときに、懐かしいと思いました(笑)。糸がほつれた状態でテープ巻きながらも使い続けてる。ブルペンも巨人におるときって毎回新球を出して投げてたんです。自分で袋を破ってね。だけどここでのボール見たらもう真っ黒だし縫い目もないし、そんなボールで投げてるんですよ。NPBの環境って当たり前じゃないんだなって感じましたね」
今は自分が指揮を執る立場となった。指導する上で、阿部監督から受けた教えが大きく影響しているのだという。
「阿部さんに言われた言葉があって、『負け試合があるかもしれないけど、お客さんにとっては、たまたまその試合を見に来た人もいれば、この試合しか来れない人もいる。その中で選手は評価される』と。
なので今の選手たちには、『我々にとっての50試合分の1とお客さんの1試合の重みは違うから、どんな展開でもプロとして戦い抜かないといけないんだよ』と強く伝えています」
今シーズンの目標として、チームの優勝そして1人でも多くに選手をNPBに送りたい想いを抱いている。
選手たち同様、「僕自身も1年1年勝負とは思っています」と語る山川。これまで名だたる選手たちに教わった教訓を受け継ぎ、新たなシーズンへと臨んでいる。
(おわり)
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