千葉ドリームスター 「第23回全日本身体障害者野球選手権大会」初出場。発足10年で手にした夢舞台への記録(前編)
11月6日から2日間、兵庫県豊岡市で「第23回全日本身体障害者野球選手権大会」が開催された。
関東甲信越代表の「千葉ドリームスター」は、発足から10年の節目で初出場。今回はコロナ禍でも活動を継続しながら関東甲信越代表として臨んだ軌跡を追う。
(取材協力 / 写真提供:千葉ドリームスター)
チーム名に込められた想い“夢を持って野球を楽しもう”
千葉ドリームスターは2011年に本格始動した、千葉県唯一の身体障害者野球チーム。選手は24名。先天性の障害に加え、交通事故などによる後天性の選手も多く在籍する。
選手たちはみな “明るく、楽しく”練習に励んでいる。チームを選ぶ際も「とにかく明るい雰囲気だったのでドリームスターで野球がしたいと思った」と多くが挙げており、活気ある雰囲気が特徴の1つである。
設立のルーツは08年オフにさかのぼる。同県出身で来シーズンより読売巨人軍の2軍打撃コーチを務める小笠原道大氏が身体障害者野球チーム「神戸コスモス」を訪問した。
その後、地元の千葉県に身体障害者野球チームがあるか調べたところないことが分かり、少年野球大会に加え更なる社会貢献活動のためにチームを結成した。
チーム名も小笠原氏が命名。“夢を持って野球を楽しもう”という想いを込め、居を構える市川市を冠し、「市川ドリームスター」が誕生した。
今もドリームスターのGMという肩書きを持ち、「後天性の障害を持つ選手も多い。心が塞ぎ勝ちになっても野球を通じてもう一度前向きな気持ちを取り戻してほしい」と、チームを見守り続けている。
ドリームスターは14年にNPO法人日本身体障害者野球連盟へ加盟。同連盟が主催する全国大会や地域大会への出場が可能になった。17年に関東甲信越大会を地元市川で初開催し、この年から3年連続準優勝と着実に力をつけてきた。
20年には、市川市にとどまらず千葉県の各市で活動していることから、チーム名を「千葉ドリームスター」に改称し再スタートを切っている。
約2年間、感染者を出さずに活動を継続
そんな20年の春、新型コロナウイルスが世界中で猛威をふるう。緊急事態宣言が発令され、グラウンドも閉鎖し活動中断を余儀なくされた。
5月下旬に宣言は解除され、6月から徐々に練習を再開し、以降は活動を止めずに継続してきた。
ただ、例年行われる全国大会や地域大会はすべて中止。そんな中でも市川市を中心に、グラウンドが開放されている時は県内外問わずスタッフや選手で確保し合い、練習や試合を行った。
練習中でもマスクを着用し消毒液を常備するなど、選手個々が感染対策を徹底。この約2年、1人の感染者も出さずに過ごしてきた。
上述の通り公式戦が中止になり、真剣勝負の場がシーズンで1試合も行われない現状から、1人の男が立ち上がった。秋には「身体障害者野球を盛り上げたい!」と、チームのGM補佐を務めGM公認のモノマネ小道具芸人 小笠原”ミニ”大氏である。
近隣の身体障害者野球チームが市川に集まり、冠大会を主催した。地元TV局やメディアでも取り上げられるなど話題性も呼び、2020年を締めくくった。
今シーズンは健常者リーグに初参戦
迎えた2021年、首都圏においても緊急事態宣言やまん延防止策が年明けから秋まで続いた。ただ、それでも歩みを止めることはなかった。
今シーズンから、県内の健常者チームの野球リーグに初参加を果たす。
チーム最年少ながら副主将を務め、攻守の要を担う土屋来夢の父である土屋純一ヘッドコーチがかねてから抱いていた構想が実現した。
「いろいろなチームに連絡をしてもずっと断られていた」と語る土屋ヘッドの熱い想いが実った。
身体障害者野球ではバントや盗塁は本来禁止であるが、リーグの規定に倣い通常の野球のルールで試合に臨んでいる。そこでも勝率5割と互角の試合をしており、継続してきた練習の成果が徐々に出ている。
関東甲信越大会初制覇。選手権の切符を掴む
また、昨年中止となり2年ぶりに開催となった「ゼット杯争奪 関東甲信越身体障害者野球大会」にも出場。関東甲信越身体障害者野球連盟に加盟している6チームの代表者で開催可否について協議した際には、
「身体障害者野球の灯を消さないためにも、仮に2チームであっても開催したい」
という考えが一致し、全チームの快諾を得た。最終的にドリームスターと東京ジャイアンツの2チームで関東甲信越の頂点を争うことになった。
9月4日、東京・世田谷公園で行われた1戦。試合直前まで雨が降る中、強力な援軍が試合を盛り上げた。
元NPB審判で通算1451試合に出場した山崎夏生氏が球審として試合を裁いた。山崎氏は1984年4月から2010年10月までパ・リーグの審判として活躍。
後に共にメジャーリーグで活躍するイチロー氏が野茂英雄氏から放ったプロ初ホームラン(93年6月12日)や今シーズン限りで引退した松坂大輔氏の鮮烈デビュー戦(99年4月7日)でも審判を務めるなど、昭和から平成のパ・リーグを築いてきた名審判。
現在は“審判応援団長”として、全国各地へ飛び学生や女子そして身体障害者といった様々なジャンルの試合を裁くとともに、講演や執筆活動を行っている。
試合は、緊張感あふれる雰囲気の中でスタート。先発のマウンドには篠原敦が上がった。
篠原はチーム創設期の2011年に入団したサウスポー。幼い頃の交通事故により右半身まひの障害があり、主に左手一本でプレーしている。
幼少期から野球が好きだったというが、「半身がまひしているので、少年野球チームに入団する勇気がなくいつも羨ましいと思っていました」と語る。
10年前に千葉県内で身体障害者野球チームが結成される記事を読み入団を即決。現在も練習を続けている。
投球では、低めに集めるストレートと沈むチェンジアップで打たせてとるスタイルが持ち味。リリース後も軸足の左足で踏ん張るため、マウンド上で仁王立ちするような姿も特徴である。
篠原は今シーズン、序盤から好調を維持。浦安リーグでも健常者相手にリリーフで無失点投球を続けていることから、富田寅蔵スコアラーも太鼓判を押していた。
「まっさらなマウンドで投げるのが憧れなんです」
かねてそう語っていた篠原の想いも知るチームメートもバックアップ。中䑓陵大主将も先攻を選び、小笠原一彦監督もこれまでの結果を評価し自信を持って送り込んだ。
篠原は期待に違わぬ投球を見せる。憧れの”まっさらな”マウンドで持ち味の低めへの投球が冴え、初回を3者凡退に。攻撃陣もその裏から猛攻を見せ1イニング10得点を挙げるなど大きく援護。
2回以降もジャイアンツ打線に1本の安打も許さない投球で試合を引き締める。その後も点を加え3回で11-0。規定によりコールドとなった。
篠原は無安打無得点の堂々たる投球で大会MVPに輝くとともに、ドリームスターも10周年の節目に関東甲信越大会を制覇。秋の選手権大会出場権を勝ち取った。
篠原は「チームの代表として先発に指名いただき、全ての方に感謝するマウンドでした。今後も身体障害者野球発展のために活動を続けます」と語り、次を見据えていた。
そして寒さが本格しつつあった11月、ドリームスターはついに但馬の地へと足を踏み入れた。
(つづく)
【関連記事】
身体障害者野球チーム「千葉ドリームスター」の成り立ち(前編)
身体障害者野球大会『小笠原”ミニ”大杯』コロナ禍で照らされた一筋の光
2年ぶり開催「第27回 関東甲信越身体障害者野球大会」パラリンピックの裏側で行われた”もうひとつのパラスポーツ”