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サッカー元日本代表 鈴木啓太 アテネ五輪最終予選での出来事と掴んだ赤き栄光 〜連載企画第2回〜

06年・07年、ベストイレブンに輝きクラブを優勝に導く

出場権を勝ち取ったアテネ五輪であるが、鈴木は惜しくも本戦出場は叶わなかった。経緯は自身のYouTubeチャンネルやメディアで語っているためここでは割愛するが、その悔しさを糧にレッズでのシーズンに臨んだ。

06年・07年は選手として最高の栄誉を勝ちとった2年間となる。レッズは06年にクラブ初の年間王者、07年には日本のクラブとして初のACL制覇を成し遂げた。

鈴木もこの間いずれもJリーグベストイレブンに選出され、特に07年には全国のサッカー担当記者によって選ばれる「日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)」にも輝いた。

プロサッカー選手として数々の栄誉を手にしていった2年間だったが、当時の苦労を語った。

「プレッシャーがすごくありました。優勝を義務付けられていたチームだったので楽しみながらではなかったですね。

もちろんその中でプレーすることの喜びはありましたし、次の目標を10年のW杯代表に置いていたので、Jリーグのチャンピオンを獲ればそれも見えてくると感じていました。

ただ、自分じゃなくてサポーターの皆さんが喜んでくれたというのが一番でした。現役を辞めてから改めて『すごい場所だったんだな』と思いましたし、日本のクラブであれだけの雰囲気を味わえることはそうないですよね」

当時の栄光もプレッシャーだったと振り返る

09年には山田暢久の後を継いでチームキャプテンに就任。同い年の阿部勇樹とボランチを組み、レッズの中盤を支えた。

そして高校時代から目標に描いていたというW杯(南アフリカ)が行われる10年を迎えた。06年ドイツW杯後に就任したイビチャ・オシム監督時代は、鈴木も代表に選出されていた。

オシム監督が「水を運ぶ人(チームのために走り続けるボランチを評した表現)」と称し、在籍期間で唯一A代表で全試合に出場するなど主力選手として牽引していた。

しかし、オシム監督は07年に脳梗塞で倒れ、その後岡田武史監督が再就任。その間、鈴木自身も扁桃炎に見舞われてしまう。それ以降、日本代表から離れ悔しくも代表選出は叶わなかった。

さらに10年は故障の影響もありレッズでは17試合出場に終わるも、翌11年からは、レギュラーに再び返り咲いた。

その後も安定して出場を続けていたが14年、突然鈴木の体調に異変が起きたのだった。

(つづく)

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