”もうひとつのWBC”「第5回世界身体障害者野球大会」日韓戦最終回の攻防にあったピンチを乗り越えるカギとは?

初戦から早くも迎えた最大のヤマ場とは?

日本の初戦は韓国戦。バンテリンドームのスタンドでは応援団が結成され、プロ野球さながらの応援が行われた。中段には選手個々の横断幕も多く掲げられ、日の丸を振る光景が見られた。

応援団も太鼓と声援で後押しした

試合は初回から動きを見せる。1回表、3番・捕手でスタメン出場した地元「名古屋ビクトリー」所属の宮下拓也。

岐阜県の強肩強打の捕手として、中学時代は10校以上の高校から誘いを受けた程の実力者。しかし中学3年生の時、左すねに骨肉腫が見つかり足の骨を切断する手術を受けた。

その後復帰への想いを切らすことはなく、高校2年時に選手として復帰。社会人で身体障害者野球に出会い、前回に続いての代表選出となった。

宮下は3球目を振りぬくと、打球は力強く左翼後方へと伸びていく。打者代走を務めた飼沼寛之が捕手をかいくぐりホームイン。名古屋でもチームメイトの韋駄天がその手でランニング本塁打、そして貴重な先制点をもぎ取った。

初回に先制本塁打を放った宮下拓也(写真上)と激走を見せた飼沼寛之(同下)

開始早々に流れを呼んだ日本代表。”開幕投手”は左のエース・藤川泰行。21年・22年春の全国大会ではエースと登板しながら主軸を打ち、連覇に導いた日本を代表するサウスポー。

名古屋でも共にバッテリーを組む宮下と息のあった投球で韓国打線を抑え込み、4回1失点と試合をつくった。

初戦の先発という大役を担った藤川泰行(名古屋)

本大会のルールとしては1試合で90分を超えたら次のイニングには入らないため、80分を経過した5回が最終回となった。日本は5回表終了時点で8-1とリードして迎えた。しかし、ここから予想だにしない展開が待ち受けることになる。

藤川の降板以降、後続の投手陣が制球を乱してしまい点差を縮められてしまう。8−6となり、かつ無死満塁という長打が出れば逆転サヨナラとピンチは続いた。

この試合レフトを守っていた主将の松元は当時の心境を語った。

「まだ絶対的エース早嶋が残っていたので、どのタイミングで交代するのか?もし、遅いようならベンチに声を掛けなければと守りながら考えていました。外野だったこともあり、意外と冷静でした」

戦況を見守る日本ベンチ

山内監督は松元の進言前に決断しており、遊撃に就いていた右のエース・早嶋健太を緊急登板に指名した。

「選手全員には事前に、どんな場面でも・いつでも出られるよう準備をしておくように伝えていました。なので、ここは彼しかいなかったです」

マウンドに上がった早嶋もその時の心境を語った。

「心境としては力まないようにと思っていました。試合前、山内監督から『どういう状況になるかわからないから準備しておくように』と言われていたので、点差が縮まるごとに”登板あるかもしれないな”と心の準備はしていました。

緊張は特になく、相手に飲み込まれないように、マウンドで1人にならないようにチームメイトへの声かけや目配せは意識しました」

早嶋がここで急遽マウンドに上がった

しかし、ここでさらなる波乱が待っていた。初球一塁へけん制球を投げると走者を挟んだ。二塁へ進塁するとここで日本ベンチがアピール。身体障害者野球では盗塁は禁止のため、走者は進塁ができない。審判団が協議し、一塁走者はアウトに。

すると韓国側もここで抗議。両チームの監督やコーチ、審判が本塁付近に集まり試合が約20分中断した。

最終回、1点差の場面で両軍ベンチが抗議した

重苦しい雰囲気の中での再開後、1点を返されるも安打を許さず二死までこぎつける。ただ、1点差で走者は三塁という絶対絶命のピンチ。両軍の緊張感がバンテリンドームに充満した。

さらにフルカウントとなった6球目、渾身のストレートが空を切りゲームセット。貫禄の投球で8-7と辛くも逃げ切った。

試合後は両軍たたえ合った

松元は「終わってから、『危なかった…』とホッとしました」安堵の表情を見せ、山内監督は

「選手たちは必ず守ってくれると信じていましたし、早嶋選手はしっかりと準備をしていて、期待に応えてくれました。全員が協力して守り切ってくれたという思いでしたね」

と試合後に語り、初戦の激闘を乗り切った。

プエルトリコ戦では ”MVP男”早嶋が快投

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