”走る将軍”元ロッテ・西村徳文氏 「朝から晩までやっていた」猛練習と名伯楽の導きで掴んだタイトルの座
現役時代はロッテ一筋16年、監督としても”史上最大の下剋上”でチームを日本一に導きオリックスでも監督を務めた西村徳文氏。
首位打者1回・盗塁王4年連続獲得という活躍を見せ、「走る将軍」という愛称でファンに愛された。
ただ、プロ入り時は「すぐ辞めるだろうな」という感情からのスタートだった。そんな西村氏がロッテの球団史に名を刻む選手へと上り詰めたのには、弛まぬ努力と名コーチとの出会いがあった。
日本プロ野球OBクラブ主催の「Autograph Collection」終了後、西村氏に現役生活と監督生活の両面について話を訊いた。
(協力:日本プロ野球OBクラブ、写真 / 文:白石怜平、以降敬称略)
名コーチとの練習量で築き上げたスイッチヒッターの礎
西村は宮崎県立福島高校から鹿児島鉄道管理局(現:JR九州鹿児島支社)を経て81年ドラフト5位でロッテオリオンズ(現:千葉ロッテマリーンズ)へ入団した。
プロ入り1年目(82年)のキャンプの際、そのレベルの高さに衝撃を受けた。
「一番最初に周りの選手を見た時、『この人たちと競い合うのは無理だ』と思ったんですよ。力の差が歴然としていてこれは厳しいなと。いつ終わるんだろうな…というところからのスタートでした」
当時のロッテは強打者揃い。名球会打者の有藤通世にリー兄弟、さらには前年ブレイクしこの年に最初の三冠王を獲得する落合博満が二塁を守るなど、球界を代表する面々がスターティングメンバーに名を連ねていた。
1年目は全て代走で6試合出場に終わり、西村は一つ大きな挑戦を決断。スイッチヒッターへの転向である。
その転向を勧めたのが当時西村と同じくロッテ1年目を終えた山本一義監督だった。広島での打撃コーチ時代に高橋慶彦・山崎隆三をスイッチヒッターに育てた指揮官が、俊足の西村に白羽の矢を立てた。
この時の秋季練習では猛練習の日々だった。ここから名コーチとの二人三脚でスイッチヒッター・西村徳文をつくり上げていく。
「当時バッティングコーチだった高畠(導宏)さんがいらっしゃって、付きっきりで相手をしていただきました。その時に高畠さんの教えに報いるためも『何とかプロの世界で結果を残さないといけない』と強く思えましたね」
高畠コーチの魅力に強く惹かれていった一つには、当時では珍しい指導法にあった。
「当時はコーチの方ってあまり選手を褒めることはしなかった時代ですよ。ただ、高畠さんは違った。当時からとにかく褒めてくれたんです」
昨今の指導法では”褒めて伸ばす”指導が浸透してきている傾向にあるが、高畠コーチは時代を先取りするかのように選手を尊重した教え方を行っていた。
「選手としてもどんどんやる気になっていきますし、そうさせるのか上手だったコーチでしたね。
二軍でも最初はまだうまくいかない時期が長かったと思うんですけども、早い段階から『この短期間で伸びるのはすごいことだよ』と言ってくれました。
『ホントかな?』と思ったりもしましたけども(笑)、『よし、それならもっとやろう!』という気持ちにさせてもらいました」
モチベーションが上がり、さらに練習にも熱が入っていく。左右両打席こなすことから、自ら自負するほど練習量は増えていった。
「他の選手より練習はやったと思います。球場近くのホテルに泊まり込んでやる日々でした。朝やってから球場入って、全体練習が終わって一度ホテルに行って、夕食をとってまた球場に戻っての練習ですから。数は相当振り込みましたね。朝から晩までずっとでしたよ」
2年目の83年には95試合に出場し、7月からはスタメンで出る機会を増やした。84年には124試合で打率.285とレギュラーを務めることになる。
上述の「いつ辞めるんだろう」という不安は徐々に自信へと変わっていった。
「1年目のオフに猛練習して、2年目にある程度試合に出れるようになってきた。その時はまだ手応えとかは感じなかったですけども、3年目から打率も上がってきて試合数も増えていきました。
この頃から『何とか(プロの世界でも)行けるんじゃないかな』って思いました。入った時とは全然違う姿になっていましたね」
首位打者獲得のきっかけになった打撃改造
4年目の85年には初の打率3割(.311)をマークし、90年には.338で初の打撃タイトルとなる首位打者に輝いた。その前年まである課題を抱えていたという。
「打球が飛ばないなと感じていたんです。ただスイッチですから、足を生かして左も打っていることを考えると、打球を上げるよりは低いライナー性を打つ方がヒットにつながるなと思ったんです」
そこで西村は練習の中で、ある発想に辿り着いた。
「以前まではフライが上がるような体の使い方になってたのですが、『少し右手と左手を開けて打ってみたらどうだ』という話になって、練習のティーバッティングでやってみたんです。そしたら左腕の力を強く使えるようになった。
それで試合でもやってみようとなって見事ハマりましたね。その年に首位打者が取れたんです」
「技術と気持ちの両方が必要」スタートの極意
西村を語る上ではプロ通算1298安打の打撃もさることながら、もう一つ欠かすことができないのが盗塁。通算363盗塁をマークし、出塁すれば相手バッテリーにとって脅威となった。
実は盗塁に関しても、打撃同様に恩師の存在が飛躍のきっかけになっていた。
「これも高畠さんなんです。ピッチャーの癖の盗み方や配球を教わりました」
あとは、盗塁で”最も大切な部分”と語るところを徹底的に磨き上げた。
「スタートの技術を磨かないといけないと考えました。速さと相手の癖も盗むことと組み合わせることで、技術は大きく向上しました。当然途中のスピードやスライディングも大事ですし、練習もやりました。
やったんですけども、やはりスタートが一番大事。技術に加えてチャレンジするという気持ちの面もありますから、スタートは技術と気持ち両方必要なんです。そう考えると、盗塁はやはりスタートが大事ではないかなと思いました」
西村が盗塁王を争っていた相手は大石大二郎(元近鉄)。大石は83・84年そして87年に盗塁王を獲得し、特に87年は西村とタイトルを分け合った。
一方西村は85年から89年まで4年連続で輝くなど、80年代はほぼ2人で争っていた。
「僕が常に意識してたのは大石さんだったので、負けたくない思いでしたね」
現役最終年、気持ちを切り替えたファームでの指導
西村はチームが川崎から千葉に本拠地を移転してからもプレーを続け、97年に16年間の現役生活にピリオドを打つ。その時の決め手を明かしてくれた。
「最後の年にオープン戦が終わって開幕メンバーを発表する際に、ロッカーに貼り出されたのを見ると自分の名前がなかった。それで近藤昭仁監督に言われたんですね。
『若い選手を使いたいから、ファームで若い選手を指導してくれないか』と。まだまだ自分ではできると思ったんですけども、もう今年で引退だなとそこで思いました」
開幕前に言い渡された通告に普通なら腐ってしまっても不思議ではないが、西村は違った。現実と真摯に向き合い、この一年間を無駄にはしなかった。
「こうなった以上は走塁部門、特に盗塁の技術などを若い選手に徹底的に伝えていこうと。気持ちを切り替えてやっていました」
この年限りで正式に引退を表明し、10月には引退試合が開催された。その後はロッテ一筋16年の功績やファームでの姿勢を評価され、翌98年からコーチに就任。
以降、一軍・二軍の内野そして外野守備走塁コーチなどを歴任し、ロッテのユニフォームを着続けた。
そして、09年オフに監督として指揮を執ることになる。
(つづく)