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「おかえり!ノムさん 大阪球場に。」遺志を継いだ愛弟子の長年の想い、そして不世出の名捕手が44年越しに帰還するまで 

野村さんが明かしていた”本音”

しかし77年オフ、野村さんは球団と衝突し退団となってしまう。以降、球団とは確執が残ったままだった。

03年メモリアルギャラリーオープンや07年リニューアルの際には、野村さん側に展示の相談をしたが許可が下りなかったこともあり、パネルや年表に「野村克也」の名や写真が載ることは一切なかった。

メモリアルギャラリーには何度も足を運んだという江本さんも、

「解説者になって40年ですが、20年近くなんばパークスに”野村克也”の名前がないのはおかしい」などとメディアなどで発信をし続けていた。

20年11月の発表にて(左から和田真治・南海電鉄執行役員、江本孟紀さん、吉川達郎・サンケイスポーツ代表※当時 提供:南海電鉄)

南海電鉄への取材時に本プロジェクトについて伺った際、グレーターなんば創造部の矢野到さんは、江本さんと野村さんの会話について聞いていたという。

「江本さんは野村さんがまだ健在だった19年まで、野球解説や本の共著などでよくご一緒されていました。会うたびと言っていいほど、『大阪球場にぼちぼち帰ってきぃや』という話を何度もしていたそうなんです。そしたら、野村さんも『せやな、わしも帰りたいなぁ』と言っていたそうなんです」

しかし、野村さんはその想いを果たせぬまま20年2月に急逝。江本さんは野村さんの遺志を継ごうと、メモリアルギャラリーに”野村克也”の名前を残すべく動き出した。

プロジェクトが本格始動することになるのは、20年の7月ごろ。江本さんは自身が評論家を務めるサンケイスポーツに働きかけ、「ぜひやりましょう」と賛同を得たのちに、同社から南海電鉄へと相談し、本格検討が始まった。

野村克則さんも快諾し、多くの協力を得る

プロジェクトの実現において欠かせない人物がもう一人いる。それは、息子の克則さん(現:阪神ファームバッテリーコーチ)。江本さんは克則さんにも打診をした。

江本さんは、「(克則さんの)奥さんと息子さんがなんばパークスを偶然通りかかった際にメモリアルギャラリーに立ち寄ったら、『おじいちゃん(克也さん)がいない』と。そんな悲しい想いはさせたくないし、ファンだって悲しい」と心を痛めていた。

矢野さんは克則さんらのリアクションについて明かしてくれた。

「克則さん始めご家族の方が、『私たちは全面的に協力しますので、野村克也の名前をぜひとも載せていただきたいです』とおっしゃっていただき、たくさんのご協力をいただきました」

野村克也さんのユニフォームや帽子が展示されている

これまで展示されてきた野村さんのユニフォームや帽子らは、克則さんの自宅まで伺い、数ある中から選んでお借りしているものだという。

「サンケイスポーツさんが克則さんの元へ行っていただいたのですが、もう大切に大切に新幹線で持って運んできたと仰っていました」(矢野さん)

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