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「スポーツはもうできない」大事故から世界を戦うアスリートへ パラテコンドー&身体障害者野球の二刀流プレイヤー 市川青空(そら)が描く進化のストーリー

現在、パラテコンドーと身体障害者野球という2つの競技でプレーしている市川青空選手。

2028年のロサンゼルスパラリンピック代表を目指し国際大会への出場を重ねる傍ら、出身地の身体障害者野球チーム「ぎふ清流野球クラブ」の一員として6月に全国大会に出場した。

タイプの異なる2つの競技で高みを目指している市川選手。ただ、一度はスポーツどころか歩くことすらもできないと宣告された時期もあった。

そんな状況からどう這い上がって行ったのか。スポーツとの歩みを振り返りながら追いかけていく。

(取材 / 文:白石怜平、 協力:太平電業株式会社 以降敬称略)

かつては軟式野球の実業団選手としてプレー

岐阜県出身の市川は、かつて実業団の軟式野球でプレーしていた。小学4年で野球を始め、中学1年時に陸上部で1年間体づくりに専念すると2年生からシニアリーグのチームに入り野球を再開。

野球では投手と中堅手として活躍し東海選抜で優勝、国際大会に出場するなど当時から”二刀流”でスポーツに勤しんでいた。

高校時代も背番号「1」を付けるなどその実力を発揮し、様々あった誘いの中から軟式野球の実業団チームがある企業に入社した。

実業団の軟式野球選手として活躍していた

フルタイムで仕事、そして終了後と週末で野球に打ち込む日々を送っていた市川の人生が一変したのは20年の3月だった。

塗料製造でペンキをつくる現場作業員として働いていた当時、その作業中の出来事だった。

「攪拌(かくはん)機の洗浄をしていた際に服が絡んで体が持っていかれてしまい、右腕がその瞬間ちぎれてしまいました」

一度に2トンのペンキがつくれる攪拌機で、1秒1000回転するため人間の力では到底抗えるものではなかった。

意識が朦朧とした中、ペンキの釜へと落とされた状態から自ら登った後にすぐドクターヘリで岐阜大学病院に救急搬送された。目を覚ましたのは翌日、緊急手術を終えた後だった。

「事故の瞬間から片腕がないことは分かっていたのですが、実際に病室で見た時には『あぁなくなったんだな』と落ち込みましたね..。

集中治療室で当時はコロナ禍が始まった頃でもあったので、面会もできなくて一人で考え込んでしまいました」

コロナ禍でもあり、壮絶な経験を語ってくれた

市川の負傷は腕だけではなかった、内臓の圧迫に加えさらに右足を粉砕骨折するという想像を絶するものだった。入院した5ヶ月の間で腕・足・内臓の計4度の手術を要した。

「入院時にはドクターから『車いす生活で、これまでのようなスポーツはできないです』と言われていました。野球の会社に入ってやっていたので、野球がもうできないのかと思いましたし、競技復帰どころか歩くこともできなくなるかと考えると真っ暗になりましたね…」

そんな市川に光を照らしたのが、入院していた岐阜大学病院で理学療法士を務める田中健太先生の存在だった。

「僕が集中治療室を出て、車椅子で動き始めた当初から担当してくださった先生なのですが、いつも明るく元気に振る舞ってくださったんです。僕の右腕があるかのように毎日接してくれました。

ベッドから起き上がるところからのスタートだったのですが、リハビリメニューも僕を”スポーツ復帰させる”と感じさせてもらえる内容で、田中先生のおかげで僕も前向きになれました。今でも連絡をとっているのですが、先生がいるからこそ今の自分がいます」

田中先生との二人三脚が競技復帰へとつながった(本人提供)

リハビリが身を結び歩けるところまで回復した市川は5ヶ月の入院を経て退院した。そこから次のステップが待っていた。

「愛知県の病院で義手をつくりまして、自分で動かせるまでに約半年かかりました。なので仕事復帰までには約1年かかりましたね」

地元からパラテコンドーの挑戦に

市川がパラテコンドーと出会ったのは事故から1年近くが経とうとしていた22年の4月だった。名古屋で行われた「J-STARプロジェクト」に参加したことがきっかけだった。

このプロジェクトはオリンピックやパラリンピックを目指す未来のトップアスリートを発掘する施策で、競技側が選手を募集するためにエントリーして開催される。市川はこのプロジェクトに迷わず参加を決めた。

「姉が陸上選手だったのですが、車いすバスケのコーチつながりがあったので、オンラインでお話しする機会を設けてもらってJ-STARプロジェクトの存在をそこで知りました」

J-STARプロジェクトへの参加が出会いだった(本人提供)

そこで測定等を行った際に多くの競技団体から声をかけられたという。実際に体験してみた中で惹かれていったのがパラテコンドーだった。

「入院中からパラスポーツを調べていたので、テコンドーも知っていました。そこで初めてミット打ちをしたり、ステップも丁寧に教えていただいた時に面白さを感じられたんです」

競技に挑戦をする上で、既にある目標を定めていた。

「やるからには世界を舞台に戦いたいと考えていました。最初は陸上の短距離と思っていたのですが、乗り越える壁がいくつもあるなと感じていました。なので世界を見据えて、すぐにトップ選手と戦える競技は何かも見極めて選びました」

約1年前はスポーツどころか歩くことすらできないとも言われていた。しかし、懸命なリハビリと家族・同僚そして入院先で出会った方々の協力もあり、再びスポーツの舞台に戻ることができた。

恩人と上述した田中先生にも競技挑戦の報告を真っ先にしたという。

「検診で岐阜大学病院に通っていたのですが、最後の診察の時に田中先生にもパラテコンドー挑戦の報告をしました。先生も『世界で戦う選手になってきてね』と言ってもらい、今も恩返ししたい想いでやっています」

田中先生と交わした言葉通り、世界で戦っている(提供:伊藤力)

前日本代表監督が岐阜へ通う日々も

市川がパラテコンドーを始めたのは職場復帰前だった。まず、体力と筋力を取り戻すべくトレーニングに励んだ。

「毎日10kmの走り込み、あとは週3回ジムでのトレーニングを重ねました。一人では動きが偏ってしまうので、友人にも付き添ってもらって僕のできないところを手伝ってくれてくれました」

当初は階段1段を登るのも疲労していたところから徐々に状態を上げ、体をもう一度つくっていった。その間、ある方が市川の想いに応えるように岐阜に何度も足を運んでくれた。

「東京パラリンピックで監督を務めていた洪君錫(ほんくんそく)さんが一緒に話したり、練習しに来てくださったんです。本当に嬉しかったですね」

仕事復帰してからも大会出場を見据え練習を続けていた中、市川はある決断を下した。

「高校卒業から勤めていた会社を辞めて、アスリート雇用をしていただいた太平電業株式会社に転職しました。パラリンピックを目指すには海外遠征など費用もかかってくると思ったんです。僕は思ったらすぐ行動に移すタイプなのでこの時も一気に進めました(笑)」

初めて地元を離れ、神奈川で一人暮らしを始めた。そして国際大会へと参加を重ねていくことになる。

つづく

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