東日本大震災から10年 楽天・聖澤諒が振り返る日本一への軌跡「”やってやるぞ”と熱い想いを持ち続けていた」

東日本大震災から10年 楽天・聖澤諒が振り返る日本一への軌跡「”やってやるぞ”と熱い想いを持ち続けていた」

2011年3月11日、過去最大規模の地震と津波が東北地方を中心に襲った東日本大震災。今年、この震災から10年を迎えた。

仙台に本拠地を置く東北楽天ゴールデンイーグルスは、2013年に日本一に輝き、東北復興のシンボルとなっている。

当時の主力メンバーだった聖澤諒イーグルスアカデミーコーチ、チームスタッフとして選手のサポートをしていた楽天野球団 松野秀三氏に話を伺い日本一までの軌跡を振り返る。

本編では松野氏に続き、聖澤コーチ編をお届けする。

(取材協力 / 写真提供:楽天野球団 ※以降敬称略)

震災当日、突然試合が中止に

震災発生時、チームは兵庫県明石市でロッテとのオープン戦を行っていた最中だった。7回途中に突然審判団が集まり、中止がコールされた。

球団スタッフからは家族の安否を確認するよう指示があり、戸惑い続きのままバスに乗った。車中のテレビに映し出された光景を見た時に初めて状況が分かった。

「バスのテレビで仙台空港が津波によって被災されている映像が流れたのですが、それを見た時に『これは大変なことが起こった』というのは実感しました」

宿舎に戻った後は球団からは指示を待つように言われ待機。その間も仙台地方への通話やメールは当然繋がらない状況が続いた。

当時就任1年目のシーズンを迎えようとしていた星野仙一監督からは「今仙台に帰る事は許さん」と統一を図った。選手たちにはスタッフを通じてこの指示を伝えられていたという。

「みなさん表面上では見せなかったですけれども、『心配だから仙台に帰りたい』と言う選手もいれば、(余震などで)危ないし、交通手段が整っていないというところからさまざまな意見がありました」

家族の安否確認がまだ取れない選手もいるなど様々な混乱がある中で、指揮官の毅然とした対応で空中分解を防いだ。

”におい”で震災を実感

17日、パ・リーグは開幕を4月12日に延期することを発表。(セ・リーグも2度目の延期で同日開幕に)

チームは引き続き関西で活動を再開し、練習試合などで調整を続けた。ユニホームを脱げば街に出て募金活動も行った。

「チームとしては開幕日も決まったので徐々に気持ちを切り替えながらそれに向けてやるしかないという状況でした。僕としても調整期間が増えたことをプラスに考えながら気持ちの整理をして過ごしていました」

仙台に戻れたのは4月7日。到着後に見た市内は以前と全く異なる光景が映っていた。

「道路が陥没して車で走れなかったり、電信柱が曲がっていた状況を目にして『すぐそばまで津波が来ていた』というのは実感しました。実際、少し中心地から離れた場所まで津波が来ていたので」

早速翌日から、チームは被災地訪問を始めた。聖澤は岩隈久志・鉄平らとともに車で約3時間かけ女川町を訪れた。沿岸部に位置する同市は津波の影響を大きく受けた地域の1つである。惨状を目の当たりにした時は言葉を失った。

「山に車がつき刺さったような状況でしたり、あとは震災のにおい。海が道路まで来たわけなので、その異臭というか、テレビやラジオでは知ることができないようなにおいを感じました」

選手らは避難所にいる方一人一人と会話したり子どもたちと外でキャッチボールを通じて交流を深めた。他にも自身の野球道具をプレゼントし、サインや写真撮影を行うなど、少しでも元気になってもらえればという想いから協力を惜しまなかった。

「イーグルスの選手が来てくれたことをすごく喜んでいただいて、応援してもらっていることをより強く感じました。これからも支援を続けるとともに、結果を出してたくさんの人に勇気を与えていきたいなと奮い立ちました」

震災当時を振り返る聖澤アカデミーコーチ

4月2日、東日本大震災復興支援試合として行われた札幌ドームでの日本ハムとの試合前、國學院大学の先輩でもある嶋基宏(現:東京ヤクルト)選手会長がチームを代表し、マイクの前でスピーチをした。

「見せましょう。野球の底力を」

この名言は野球ファンのみならず全国民の気持ちを奮い立たせた。10年経つ今もはっきりとその記憶に刻まれている。

2011年、全試合出場し52盗塁

迎えた4月12日、QVCマリンフィールド(現:ZOZOマリンスタジアム)でロッテとの開幕戦。

”被災地のために戦う”チーム全員が1つになり、ユニホームには「がんばろう東北」を袖に特別なシーズンへと臨んだ。

試合は、エース岩隈が力投し、嶋の3ランで援護するなど6−4で勝利を飾った。聖澤は2番・中堅でスタメン出場し、6回に同点の犠飛を決めた。

本拠地であるKスタ宮城(現:楽天生命パーク宮城)は、照明灯など47箇所の損壊があり、約5週間かけて修復工事を行っていた。その間は関西で代替し主催試合を開催した。

ホーム開幕は4月15日の甲子園球場でのオリックス戦。松井稼頭央の先頭打者本塁打、田中将大の2失点完投でこちらも3-2で勝利を飾り、4月29日にいよいよ本拠地での試合を迎えることができた。

本拠地のファンの前で再び嶋選手会長が挨拶。

「東北の皆さん、絶対に乗り越えましょうこの時を。絶対に勝ち抜きましょうこの時を」

涙と熱い想いが交錯すると同時に、イーグルスと東北の結束がさらに強まった。この試合も田中が1失点完投し3-1。節目の3試合を全て勝利で決めた。

聖澤もこの試合2打点を挙げ、この試合も勝利に貢献している。

しかし勝負事である以上、相手も全力でぶつかってくる。2011年は終盤までクライマックスシリーズ争いを繰り広げるが惜しくも力尽き3位と3ゲーム差の5位、翌12年も勝率5割と成績を上げるも4位に終わった。

聖澤としてはこの2年間はキャリアでも最高の成績を残し、東北の方々を勇気づける活躍を見せた。

11年は全試合に出場し、チームトップの打率.288。盗塁は前年の倍以上となる52盗塁を記録。12年も年間通じて活躍し、54盗塁で盗塁王のタイトルを獲得した。

「試合の時だけでなく、日頃過ごすにおいても常に『やってやるぞ』と熱い想いを持ち続けていました。ただ、実際ゲームになると気持ちが入りすぎてしまうところ最初ありました。なので、気持ちをコントロールして心身ともに仕上がってきた点がよかったのかなと自分では分析していました」

そして13年、東北に伝説が生まれる。

2013年、野球史に語り継がれる日本一

2013年、エースの田中はWBC日本代表として戦っていたため、前年ドラフト2位の則本昂大が新人としてはリーグ55年ぶりの開幕投手に抜擢された。

チームは5月から上昇気流に乗り始める。7月4日、ロッテとの直接対決に勝利し、首位に並ぶ。以降、一度も首位の座からは落ちることはなかった。

そして9月26日、この時がやってきた。

敵地での西武戦、試合前の時点でマジック2。この試合に勝利し2位のロッテが負けることが優勝への条件だった。

試合中にロッテが敗戦しマジック1に。楽天は7回に聖澤の四球をきっかけに、満塁から4番のアンドリュー・ジョーンズが走者一掃のタイムリー2塁打で逆転した。

そして9回表、ブルペン待機していた田中がマウンドに。安打・四球から犠打を決められ1死2・3塁とピンチを迎えるものの、栗山巧・浅村栄斗(現:楽天イーグルス)を連続三振に仕留めゲームセット。球団史上初のリーグ優勝を決めた。

クライマックスシリーズはロッテとの対戦。アドバンテージの1勝含め4勝1敗で日本シリーズ進出を決めた。

シリーズの相手は星野監督にとって現役時代から打倒を掲げてきた巨人。

本拠地での初戦は則本が先発のマウンドに上がった。8回2失点と力投するも、巨人の投手リレーを前に点が取れず敗戦。2戦目に田中が先発。貫禄の投球を見せタイに戻した。

東京ドームに場所を移した3連戦は、このシリーズMVPとなる美馬学の好投と5戦目の辛島航・則本のリレーで王手をかけ仙台に戻ってきた。

そして6戦目の先発は田中。この年ポストシーズン含め26勝負けなしで迎えたこの試合、誰もが勝利を信じて疑わなかった。

2回に2点を先制するも、5回に3点を失い逆転を許した。6回にも1点を失い、2−4でまさかの敗戦となった。

「田中で負けた」

誰もがその驚きとショックで包まれた。それでもナインには悲壮感は全くなかった。当時の様子を聖澤はこう語った。

「チームが初めての日本シリーズなので怖いものを知らないと言いますか、とにかく前向きでした。田中で負けた後もロッカーでは雰囲気も下がることはなかったです。『また明日やるぞ』って気持ちでしたね」

誕生日だった13年日本シリーズ第7戦。平常心で臨んでいたという

第7戦、前日160球投げた田中もベンチ入りした。もう泣いても笑っても最後。文字通り総力戦だった。

楽天は初回に1点を先制し、2回にも1点を加えた。先発の美馬・7回から則本が0点に抑え9回、感動の物語がフィナーレを迎える。

田中の名がコールされると、Kスタ全体がスティックバルーンの音とともに歓声が上がる。球場に入れなかった1万人以上のファンが、外に設けられたパブリックビューイングに駆けつけ、声援を送っている。

登場曲「あとひとつ」が流れ、球場全体の大合唱が田中を包んだ。

先頭の村田修一(現:巨人1軍野手総合コーチ)に安打を打たれるものの、続く打者を抑え2アウト。その後1・2塁となり、打席には代打・矢野謙次(現:北海道日本ハム ファーム打撃コーチ)。

スタンドからの”田中”コールが後押しになり、カウント1−2と追い込んだ4球目の外角スプリット、矢野のバットが空を切り試合終了。

小雨の降る寒空の下、星野監督が9度宙に舞った。東北楽天ゴールデンイーグルスが”野球の底力”を見せつけたのだった。

この日11月3日は誕生日だった聖澤は序盤ながら途中出場。2安打を放つとともにセンターのポジションから歓喜の時を迎えた。

「僕は平常心で試合に臨んでいました。ただ、試合が終わってニュースを見ると被災地の人が集まってくれて、球場の外にも1万人ほどの方々がパブリックビューイングで声援を送ってくれていた。その光景を見たときに鳥肌が立ちましたし、『すごいことをやり遂げたんだ』という気持ちになった瞬間でもありました」

東北という名がつくチームでプレーする意義

聖澤は18年に現役を引退。翌年から楽天イーグルスアカデミーでコーチとして子どもたちを指導する傍ら、中継の解説などを務め、現在も仙台を拠点に活動している。

未曾有の大震災から10年、街の変化をずっと見続けてきた。仙台の復興についてはどう感じているのか。

「実際に震災当初から見ていて、仙台空港も津波で流された状態からすぐ復旧・再開させたのもありますし、人間の行動力はすごいなと。復興のスピードもあの当時を振り返ると速いと感じています」

そして時は経ち、当時を知らない若い選手も増えてきた。イーグルスのユニホームを着てプレーする上で願っていることがある。

「東北という名がついているチームで、たくさんの応援をいただいているという気持ちを持たないといけないです。若い選手は当時のことはあまり分からないかもしれないですが、『先輩方はこれらを乗り越えてやってきた』ということを1度は映像見ることを通じて、その想いを感じながらプレーしてほしいと思っています」

アカデミーコーチでは年中クラスから中学生まで幅広く指導している。今もイーグルスの一員として、東北の未来のために生徒とともに汗を流し続けている。

(取材 / 文:白石怜平)

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