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リオデジャネイロ五輪銅メダリスト・小堀勇氣さん 24年間の競技生活で感じた「最後まで完成はしなかった」その真相と水泳生活のルーツ

コロナ禍で一度は引退も考えるも、東京五輪に照準を

リオでメダルを獲得し、次は母国の開催となる東京五輪でのメダルも自然と期待が高まっていく。

18年、日本チームはパンパシフィック水泳選手権では400mリレーで銀・800mリレーで銅、同年ジャカルタで行われたアジア大会では800mリレーで金に輝くなど、その期待に違わぬ活躍を続けていた。

しかし、20年から状況が一変した。世界中で猛威を振るっている新型コロナウイルスである。同年に開催が予定されていた五輪も1年延期。自粛ムードが高まり、街から人が消えていった。

小堀さんは当時の状況を語った。

「うーん…まずは競技をどうしようかなと。1年は相当長いですし、4年に1度に向けて身体・気持ちをつくり上げていった中で、もう1年目標に向かっていけるのかを確認したいと思いました。

ただ、実際はすごく迷っていて、延期になってから1ヶ月ほどお休みをいただいき考えていました」

コロナ禍に入った当時の悩みを明かした

選手生命は短く限りのあるアスリートにとって1年という期間は競技人生を左右する。心の底では引退の方に気持ちが動きつつあった。

「もう辞めようと思っていたら、担当の平井伯昌先生が『プールに行って来い』と。『まだ泳ぐかどうかも決めてないので行かないです』と言ったら、『いやプール行って来い』と無理矢理(笑)。

自粛期間中だったので内緒で僕をプールで泳がせてくれたんです。泳いだら『やっぱり泳ぎたいな』と自然に思えたんです。泳いでみたらその迷いが吹っ切れました」

迷いがなくなった小堀さんはトレーニングを再開。施設は閉鎖していたため、大学からエアロバイクを自宅に運んで漕いだり、床にマットを敷いて筋力トレーニングを行うなど、限られた中でできることをこなしていった。

しかし、1年の期間というのは小堀さんの歯車を狂わせ、そして元に戻ることはなかった。最終選考会で結果を残せず落選となってしまった。

「最終選考会で結果が出なくて1ヵ月ぐらい引きずっていました。ただ、シンプルに競泳というスポーツは速く泳げる選手が代表になれるので、この時に速い選手・強い選手が日本代表として出場する。

なので当然の結果だと。そう考えられてからは、大会で”ジャパンを応援したい”と純粋に思いながらTVで観戦していました」

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